こちらもなかなかニュースに出てこないが、「共謀罪」に関する法案が再び国会に提出されようとしている。
“平成の治安維持法”と呼ばれているこの法律だが、正式には「犯罪の国際化及び組織化並びに情報処理の高度化に対処するための刑法等の一部を改正する法律案」といい、これによって新設されることとなる「組織的な犯罪の共謀罪」についての規定に対して、さまざまな立場の人から反対の声が上がっている。
私も、“共謀罪に反対する言論人・表現者”の一人として共同声明に名を連ねており、9月19日に文京区で行われた集会にも参加した。
とはいえ、恥ずかしながらこの法案要綱を見ても、何が何だかさっぱりわからないのだが、法務省の説明では、「組織的な犯罪の共謀罪」を新設することによって、国連総会で採択された「国際組織犯罪防止条約」に加入することができ、一層強化された国際協力の下で国際組織犯罪から守ることができるようになるのだという。
さらに、この法律では「共謀罪を犯罪とするに当たっては,国際的な性質とは関係なく定めなければならない」として、“国際組織犯罪”とは無関係に「特定の犯罪が実行される危険性のある合意が成立した場合」には処罰されるらしい。
対象となる法律名・罪名は五百数十にも及び、実際に罪を犯さなくても、その内容を共謀していたと認めれれば、それが犯罪となり、5年以下の懲役・禁錮とされてしまう。
わかりやすい例としてよく説明されているのは、サラリーマンが酒に酔った勢いで気に入らない上司のことを「ぶっ殺してやれ」などと気炎を吐いただけで、「殺人を共謀した」として逮捕されてしまうというケースだ。
また、民間の市民活動や反戦運動、労働運動などを行っている人にとっては、それが国の利害に反する場合、不当逮捕の根拠にされる可能性も高く、集会の自由、表現や思想の自由が侵される危険性とも無縁ではない。
けれども、私にとってはこれらのケースは「共謀罪」を否定するための根拠として、リアリティに乏しいのが歯がゆかった。
というのも、私は小心者のせいか、嫌な思いをさせられた人に対して「少しは不幸な目に合えばいい」ぐらいのことを思ったりはするが、やはり気持ちのいいものではない。
ましてや死を願ったり、それを口にしたら、自分に禍がめぐってくるようで、なるべくそういう憎悪を抱かないように努力しているところがあるからだ。
また、市民活動にも平和運動にもそれほど深くは関わっていないし、今後もその予定はない。文章表現というものを生業にしてはいるが、私ごときのヘタレライターが書く原稿がそれほど国の利害に反するとは思えないし、その影響力などたかが知れている。
つまり、今の私の想像力の範疇では、この法律ができようとできまいとあまり影響はないのではないか、などと思ったりするのだ。
同じように、この法案に対して一般のリアクションが薄いのも、“国際組織犯罪”、つまりテロを取り締まるという文句のつけようもない大義名分の影に、このような人々の意識も隠れているからではないだろうか。
「普通に仕事して、普通に生活している分には影響のないことだわ」
「この法律ができたら、ちょっとは行儀良くしておくか」
「あんまりお上に逆らうようなことをしなきゃいいんだし」
「自分には関係ないから、どうでもいいわ」と。
けれども、それこそがこの法律の最も大きな問題点なのだと、自戒を込めて思う。
人々の関心の範囲を自分とその周囲に狭め、視点から批判精神を抜き、世の中を無難に生き抜くために思考を停止させるという装置になりうる部分が、この法律の最大の問題点なのではないだろうか。
民主主義社会が崩壊するという意見もその通りだが、それ以前に私は今の日本で一体どれだけの人が“民主主義社会”を心から望んでいるのだろうか、と悲観的に考えてしまう。
というのも私自身が、“民主主義”が与えてくれたさまざまな権利や自由を根拠にした決定権の前で、その責任の重さや厳しさにつぶされそうになることも多いからだ。
ともすれば明確な答えを出してくれる誰かに、決定を委ねてしまいたいと思い、指示に従って生きることの気楽さに逃げたくなることもしばしば。
大事につけ、小事につけ、ものごとを決めるためには、そこにあるたくさんの選択肢について知らなければならない。にも関わらず、多くの重大な事実はたいてい複雑なシステムの陰に隠れてしまっている。
それを見極めるためにはたくさんの知識を身につけ、情報を集めて吟味しなければならない。さらに自分が関わった決定の結果については責任もとらなければならない(連帯責任も含め)。
民主主義社会で生きるということは、こういう厳しさを負って生きるということなのだ。民主主義が保障する権利と自由とは、ただ好きなことだけしてしていればいいという自由や、毎日楽しく暮らす権利ではないのだが、私のなかにこうした子どもじみた望みを捨てられないところがあるのも事実である。
余談だが、『女王の教室』で真矢先生が「いいかげんに目覚めなさい」と言いたかったことも、善意に解釈すればそういうことだったのだろう。
自己決定と自己責任の重さに押しつぶされている大人たちへの痛烈なメッセージと見ることもできるのだが、残念ながら脚本と演出があまりに稚拙で極端なため、(真矢先生のような強力な統率者が必要という)全く別の意味に解釈されているようだ。
ジャーナリストやアーティストなどの言論人、表現者というのは、私たちの前に立ちはだかっている複雑なシステムの向こうから覆い隠されていた事実や真実を取り出すことを仕事としている。市民運動や社会活動などは、社会のシステムをわかりやすくし、より多くの人に適応させる方向性を作り出すことを目的としている。
「共謀罪」によって、彼らの仕事がやりづらくなる、あるいは仕事そのものが不可能になることは絶対に避けなければならない。そして、普通の市民が彼らを支えたり、自分自身や他人の権利や自由を守っていける社会でありたい。
「共謀罪」は、その連帯を分断する法律なのだ。
「国に逆らわなければ、とりあえず自分の平和だけは守れる」
「自分の周りさえ平穏なら、他のことは知らない」
そういう気持ちのなかに入り込み、人と人の絆を断ち切っていくところが、何よりも恐いと思う。
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