October 12, 2006

婚外恋愛と不倫 8

 8月からアクセス解析がついたので、このブログがどんなページからのリンクをたどって、どのような検索の結果で来ていただいたのかがわかって面白い。
 その結果、どのページが一番興味を持って読まれているか、というと断トツで「婚外恋愛と不倫」シリーズなのだ。

 実はこの内容は、5年ほど前、書籍化を画策したテーマなのだが、「人妻の不倫」が社会的にどういう意味を持つかを検証するというのは、私もどこからどう扱っていいかわからなかったし、人に説明してもなかなか理解されなかった。
 類似書としては、亀山早苗氏の『不倫の恋で苦しむ~』シリーズなどが上げられるのだろうが、生意気ながら「配偶者以外との恋愛を間違いとはいえない」という着地点に終わる同書には不満であった。
 また、参考図書として衿野未矢氏の『依存症の女たち』を下さった編集者の方もいたが、私が書きたかったのは「女たちの物語」ではなかった。
 
 確かにひとつ一つのケースを当事者から聞いていけば、そこに彼らなりの理やそうならざるをえなかったストーリーは当然ある。
 けれどもそれは偶然の組み合わせによるドラマではなく、ましてや本人が思っているような「必然」や「運命」ではないと私は思っていた。
 例えば、彼らの恋愛を「不倫」たらしめているのは、現在の結婚制度であり、家族制度である。
『不倫で苦しむ~』シリーズは、そのバックグランドに対する問い直しという作業までたどりついていないところが不満だったのだ(最近は亀山氏の著作を読んでいないため、近作についてはわからないが)。
 
 一方、当事者である不倫している男女にそうした問題意識について尋ねても、まったく要領を得ない。女性は「自分と相手男性と配偶者の関係性」というごく限られた部分にしか目を向けようとしないし、男性からは口説き半分のつまらぬ恋愛(セックス)論を聞かされるばかりである。
 そうした無収穫な取材しかできなかったが、多少乱暴ではあるが、私はいくつかの仮説を立てた。ブログやインターネット日記に見られる主に女性側から見た不倫には次のような社会心理的な問題を含む要素がある、という仮説である。

 A.立場によるアイデンティティの崩壊
  家族の集合体や企業社会という均一なコミュニティのなかで長く生活していくことによって、妻や母親といった立場や役割に埋もれて、自己意識はあいまいになる。
  不倫を通じて「自分とは何か」を探るうちに「性」としての自己確認が行われ、不倫相手によって、自分が“特別な異性(女)”として認められることによってアイデンティティの再確立が図られていく。
  ~「不倫することによって女である自分を取り戻した/自分は(良い意味で)変わった」「自分が不倫相手にとっていかに特別な女であるか」という内容の記述から

 B.家庭における夫婦のディスコミュニケーションと男性優位へのアンチテーゼ
  女性にとって、所属するコミュニティ(家庭や地域や企業など)での自己主張は難しい面もある。まして、専業主婦は、夫の収入で生活しているという負い目があるせいか、夫の価値観に反する言動をしにくいという生きづらさがある。
 それが蓄積されてルサンチマンとなり、他の異性を愛することでリベンジを図るという意識と無意識、不倫を通じて違う人生への可能性を探る手段としている。 
  ~配偶者に対する不満や、「不倫相手と自分がいかによきパートナーシップを保っているか」の内容、「ゆくゆくは(不倫相手と)一緒になりたい」などの記述から

 C.競争社会のなかの“癒し”としての恋愛
  今の30~40代は子ども時代から競争にさらされてきた世代であり、たえず「他者」を意識し比較することでしか、自己を確認できないという心理が培養されている。
  学力や入った学校の偏差値、就職した企業の知名度、結婚後は夫の財力、子どもの発達や成績、外見や内面の魅力などにおいて、自己の優位性が認められなければ、安心できないという心理状態に陥ったり、それがないと思うことで不必要なコンプレックスに苛まれている人は少なくない。
  数年前のヒット曲『世界にひとつだけの花』の歌詞にあるように、“誰もが特別なオンリーワン”と言ったところで、本人が自分の特別性を信じられなければ意味がない。
  相手を特別視することから始まる恋愛関係という状況では、自分のなかにある特別性や(他者との)優位性を確認しやすい。
  地道な結婚生活のなかではなかなか味わえない感覚であるがゆえに「不倫」という状況にますますのめりこみやすい。
  ~不倫相手を通して語られる自分の美しさや内面性の良さ(自慢)、「家庭で癒されない自分たちは相手によって癒される」などの記述から

 D.加齢への恐怖感による恋愛依存
  「アンチエイジング」が時代のキーワードとなって久しいが、「若さ」が価値を持つ日本の社会において、「老い」は恐怖となり得る。
 恋愛の高揚感によって若さを維持させたいという願望やそうあるべきという恋愛観が既婚者の恋愛を肯定する価値観のベースにある。
  ~「一生“現役”(の女)でいたい」「(心身の)若さを保つためにいくつになっても恋/セックスは必要」などの記述から

 E.原体験としての愛情飢餓がもたらす恋愛依存
  不倫女性の日記やブログを読んでいると、自分の親が不倫し、その結果として家庭不和や家庭崩壊を招いたという経験をしている人が少なくない。
  また、不倫という要因はなくても親から虐待されたり、そこまでいかなくても温かみのない厳しさでしつけられたことで心に傷を抱えているというケースももある。
  そういう家庭を築いた両親を反面教師とし、自分だけは幸せな家庭を築くのだと心がけていても、配偶者や子どもとどう接したらいいかわからずコミュニケーションに苦しむ。
  インターネット上に文章を書くことを通じて、そうした問題点を認識しているにもかかわらず、愛情体験に乏しいため、無責任なセックスでそれを埋めようとしたり、その相手との関係を「(リスク込みであるがゆえの)強い愛情」と思い込む陥穽がある。

 この5つの要素が、それぞれのケースに応じて(単独、あるいは組み合わさって)絡み、インターネットや携帯端末などを用いた通信技術の発達が、状況を加速、膨張させている。
 これは女性からの視座で文章化しているが、男性に関してもこれらの問題は確実に存在するはずだ。
 一体いくつの不倫日記・ブログを読み、その筆者と何通のメールを交わしただろうか、また、男性への取材は、日記やブログで自分の不倫を書いている人が少ないので、わざわざ自ら出会いサイトに登録してメール交換やチャットなどを試みた。
 その苦しいコミュニケーションの結果、彼女たちの恋物語は決して単なるロマンスではなく、生きづらい世の中が生んだ社会状況の一環ではないかと思ったのだ。

 もちろん、ひとつ一つのケースそれぞれは「特別な関係」であり、何かの範疇に括ったり、傾向を割り出したりすることが乱暴な試みであることは承知している。
 不倫関係から始まっても、今では家族となっているT子さんのようなケースもあるのだから、既婚者だからといって独身者の恋愛とは違うバイアスをかけてみようとするのも、当事者にとっては不愉快なことだろう。

 その意味では、既婚者の婚外恋愛といっても、「たかが不倫」であり、「特別」というよりは、数多くある男女の関係性のひとつに過ぎない。
 けれども、それを「特別な関係」として表現しているのは、他ならぬ当事者の彼女たちであり、それを特別たらしめている意識(無意識を含む)には、それを培養した社会的背景があるということだ。
 個別のケースがもつ物語よりは、むしろその社会状況に興味が興味があったのだが、学者でない私が論じるには、あまりに大きすぎるテーマだったかも知れない。 

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November 26, 2005

婚外恋愛と不倫 7

 総論はすでに述べた。老若男女、既婚未婚にかかわらず、恋愛することそれ自体は自由だし、決して悪いことではない。しかし既婚者の配偶者以外との恋愛は不法であり、アンフェア(不正)な行為だ。とくに次世代への責任が生じる可能性のあるセックスが伴う関係は。
 「そんなことは、言われなくなくてもわかっている、でも」と“不倫”している女性たちは言う。「でも好きなんだもの」「でも配偶者は嫌な男なんだもの」「でも配偶者とのセックスはつまらないんだもの」・・・。
 「でも」の続きは人それぞれの事情や理由が続いていく。「既婚者の恋愛は不法で不正」が総論なら「でも」に続くストーリーが各論であり、それらはインターネット上の日記やブログで誰でも簡単に読むことができる。

 これらの筆者とメールや掲示板でのやりとりで取材を試みていた時期がある。本当は直接会って話を聞きたかったのだが、実現しなかった。
 考えてみれば当然だ。インターネット上でどれだけ大胆に表現していたとしても、不法行為をしていることを前提として見知らぬ第三者に面会するのは、当事者からすれば大きなリスクに違いない。
 そして、「会ってもらう」ための信頼関係を築く前に、私が相手とのコミュニケーションの疲れてしまったのも事実である。
 そういう意味で成功したとは言い難い取材だったけれども、思い切ってその各論部分であるいくつかの事例について述べてみたいと思う。
              ***

 不法であることをわきまえながらも恋愛せずにはいられない、しかもその事実を不特定多数の目に触れるインターネット上で表現せずにはいられない女性は、基本的なパーソナリティとして感受性が強いという傾向がある。
 彼女たちは、その心に寄り添って言葉をかければ感激して受け入れてくれ、それに反することを指摘すれば深く傷つき、心を閉ざしてしまう。
 ときには「あなたは人生において何も失敗や不正をしたことはないの」「本物の恋愛をしたことのないあなたに私の気持ちはわからない」「男にもてないからって(私に)嫉妬しているんでしょう」と不愉快かつ見当違いな反論(?)を受けたことさえあった。

 けれども彼女たちの気持ちも少しはわかるのだ。離婚も不倫と同様(ではないが厳密には)、「正しくないこと(不正)」であり、できれば避けるべき選択だということが社会的には前提となっている。
 しかし事情によってはやむを得なかったり、必要となる場合があり、私は自分の個人的体験である「離婚」についてはそのケースであると理解しているが、それでも「不正である」という意見はあるだろう。
 しかしこれは仕方のないことだ。私というパーソナリティでもって、私がしてきた経験をしてみなければ、他にどういう選択肢があって何を選ぶべきであったかという議論は成り立たない。そしてそんなことはそれほど意味のあることではないと思う。
 
 彼女たちが言いたいことも同じなのだろう。「私というパーソナリティでもって、私がしてきた経験をしてみなければ、他にどういう選択肢があって何を選ぶべきかという議論など成り立たない。そんなことは無意味」ということだ。
 けれども法律は彼女に対して選ぶべき選択肢を定めており、それは既婚者の恋愛をタブー視するという社会通念の根拠にもなっている。
 既婚者でありながら“配偶者以外との恋愛”を選択する彼女たちが綴る言葉はこの社会通念へのアンチテーゼではないかと思って対話を試みたが、彼女たちにとってそのような視点でのコミュニケーションは決して意味あるものではなかったようだ。
 彼女たちが求めていたのは、自分の選択が社会的な行為であるという視点ではなくて、あくまでも「既婚者の恋愛は不法で不正」という総論を前提として、各論における自分の事情を考慮された上で特例としてこの恋愛が認められることだ。
 つまり、不倫してはいけないが、「彼女というパーソナリティでもって、彼女がしてきた経験による選択」である“不倫”は「やむを得なかったり、必要となる」ケースなのだと言って欲しかったのだと思う。
 それが自分の選択が「正しくない」という現実と倫理的な罪悪感、社会的な孤立感と闘うために必要なのだろう。
 私もそうだった。だから、欲しいのは常識論や「かくあるべし」というお説教ではなく、「あなたが選んだことなら尊重する」「あなたなら大丈夫」というシンプルな受容だ。
 それをくれた友人や知人や家族たちにどれだけ救われたかわからない。同じものをネットで見つけた彼女たちにあげられなかったのはなぜなんだろう、と今、私は思う。
              ***

 T子さんは数年に渡る同僚との不倫を経て、今はその相手と再婚してさらに数年が経つ。
 けれどもブログに過去を綴ることは、その体験を整理し、昇華させた上で、今の自分の“不倫”に対するスタンスを確認するのに役立っているという。
 最愛の相手をパートナーとし、元夫との間の二人の子どもたちを引き取り、さらに現夫との間にも子どもが生まれた今、自分がしてきた選択を決して後悔していないと彼女は綴る。
 けれども不倫中、とくにそれぞれの配偶者に発覚してからの内的外的葛藤には深く傷ついてきたし、今も支払いが続く多額の損害賠償が生活に大きくのしかかっていることも事実だ。
 彼女が書く言葉の端々には、その現実について、実は心からは納得できていないということが表れることがある。そんなとき彼女のブログのコメント欄はさまざまな意見であふれた。

 私は、彼女の言い分はおそらくこういうことなのではないかと推察する。自分たちが既婚者という立場で恋愛していたことは確かに法に反するし、不倫は決して正しい行為ではない。特に家族や親しい人たちを欺き、傷つけたという過去については苦しいほどの罪悪感がある。だから慰謝料という形で賠償し、元妻が育てている現夫の子どもたちにも十分な養育費を支払い、謝罪の意思を表している。
 にもかかわらず、不貞行為をしたという現象面でしか社会的には判断されないのが悔しい、ということだろう。たとえばそれは、不倫していたということで世間一般から向けられる好奇や偏見の目、人格否定のような差別への怒りである。
 「不倫をしていた」という事実以外にも自分たちの過去はある。既婚者の恋愛が“不正”だというのなら、個人として、職業人として、家庭人としての努力や貢献がまったく顧みられないことは“不正”ではないのか、という心の叫びを綴ることもあった。
 
 また、T子さんはときに二人の元配偶者の過去の結婚生活における“不正”をも指摘した。たとえば、彼女の元夫は夫婦や男女間において対等な関係を指向しないタイプだったようだ。逆に現夫と元妻はサラリーマンと専業主婦という役割分担の関係から、精神的なすれ違いが生じていたようだった。
 二人はそんな結婚生活の中でも、育児や仕事に没頭し、友人としての節度を持って接していたが、ある時期からお互いを公私ともに最良のパートナーと認め、関係を深めていった。
 不倫関係が始まってから味わった、辛く、悲しい思いは、お互いの家族に対して配慮したからこそだったのに、発覚後、元配偶者たちは、自分たちのパートナーシップやこちらの気持ちなど省みることなく、法と社会通念を盾にとって二人を攻撃した。
 現夫は家を出され、財産を奪われ、仕事も失い、信頼を一から回復するのに非常な苦労をしたし、T子さんも別居、離婚、再婚までの過程で心身共に大きなダメージを受けた。

 これらの経験を経た今、彼女は 「夫婦関係も、不倫も、因果はすべてフィフティフィフティにある」と考える。不倫は確かに「不法で不正」な行為だが、それだけが問題なのではなく、そこまで至るまでの過程では、それぞれの伴侶にも、十分責任はあったはずだというのが彼女の考えだ。
 にもかかわらず、不貞行為をした一方のみの責任だけが問われ、追求されるという事実に、彼女は本音の部分では納得がいかないのだろう。
 結婚観も人生観も定まらぬごく若い時期にした結婚のあとで、もっと自分に合った異性と出会い、ともに生きていきたいと願ったことも、それを実現させたことも、これほど糾弾されることなのだろうか、人が幸せを追求できない社会通念とは本当に正しいのだろうか、とT子さんは綴る。
 この主張は、ある意味正しい。言いにくかったであろう当事者だからこその本音を、匿名とはいえ、公の場所で述べた勇気は素直に賞賛したい。

 けれども、彼女の言わんとする内容のなかで私がどうしても受け入れられない部分は、主張すべき「時期」と「相手」を間違えている点だ。
 T子さんたちが、お互いの配偶者に関係が発覚する前に事実を告げ、別居、離婚、再婚に至ったのなら、そしてそのタイミングで、この考えを主張したのなら、彼らの行動や価値観は説得力は増す。
 けれども彼らはあくまで現在の法制度と社会通念に表面上は適応しようとしていた。社会や家族を欺いたままやりすごそうとした、その企てが破綻した結果としてダメージを被ったという因果関係がはっきりしている以上、今さら自分たちなりの“理”を主張しても遅いだろう。
 そして、匿名で顔の見えない不特定多数の相手に向かって、こんな“理”を主張されていると知ったとき、元の配偶者や家族はどれだけやりきれない思いをするかという想像力が足りないとも思う。

 そのようなことを指摘すると、T子さんは私の視点に対して理解を示しながらも「あなたは上からものを見るような言い方をするからこわい」と言った。
 確かにブログに表れる彼女の視点は自分中心過ぎるように思われるから、多少突き放した表現でコメントを書いていたと思う 。
 しかし、私は決して彼女が言うように「不倫したからといって人格を否定」していたわけではない。むしろ、理知的でありながら情熱家で、仕事に対しても人間関係でも、前向きに努力する、とても魅力的な女性なのだろうと推察している。
 そのことは、きちんと伝えたつもりだったが、彼女が求めている言葉を、求められるままに書くことはできなかったのだ。

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July 25, 2005

婚外恋愛と不倫 6

  「不倫している女性のブログや日記を読むのが趣味です」と公言するのはなかなか勇気のいる行為だが事実なので仕方ない。
 かつての日記サイトがブログに移行するにつれて、不倫日記の多くもブログとなったようだ。そこで興味深い現象が起こった。
 ブログのコメントやトラックバック機能を使っての論争が生まれ、それぞれの立場からそれぞれの主張が展開されていて、それを読むのはいろんな意味で面白い。
 とくに不倫(=既婚者の恋愛)は是か非かのやり取りから、ブログという自己表現手段のあり方やネットコミュニケーション論に発展していく過程では、私もさまざまなことを考えさせられた。

 私のスタンスは、こちらのブログの筆者に近い。“不倫”それぞれののケースに対して個人的には是も非もないが、いち社会人としては「止めろ」と言わざるを得ない。
 なぜなら、既婚者の恋愛は、法律で禁じられている以上「不正」だからだ。ついでに言わせてもらえば、既婚者の恋愛を「婚外恋愛」と呼ぶのも止めてもらいたい。
 「婚外恋愛」という言葉は、できれば(私のように)独身者同士だが結婚を前提としていない付き合いをしている者のために使ってもらいたいと思うのである。
 ブログを読んでいると、発端は不倫でもその後離婚して、普通の恋人同士になっている人も多い。その後再婚するかどうかは不確かでも、隠れたり怯えたりすることなく堂々と一緒にいられることの喜びは想像に難くない。そのようなカップルにこそ「婚外恋愛」という言葉はふさわしくないだろうか。
 
 本題から逸れたが、ここでは、なぜ既婚者の恋愛は「不正」とされるようなシステムになっているのかと考えてみたい。
 思うに、それは「愛」というものの特性が社会に上手く機能しないからではないだろうか。
 基本的に、男女の間の愛というのは相手の内面に深く立ち入っていくタイプの感情である。けれども、社会が発展していくためには、愛情の対象を広げていく必要があるだろう。
 男女の愛だけでは、その間に生まれた子どもは育たないからだ。俗に「恋愛は3~4年で終わる」と言われているのもそのためではないか。けれども愛の対象を子どもに広げていくだけでいいかといえばそれでも不十分だ。
 家族だけ、一族だけの愛情だけを是としていたのでは、他の家族との対立を招きやすい。そこで家族や血縁を越えた愛が必要になるのだろう。
 このように「愛」というものの本質はその対象を広げていくことにこそ価値があるのではないか。結婚によって家族を作っていくというシステムは、この「愛」の特性を活かし、平和的に社会を発展させていくためには上手く機能しやすいのかも知れない。

 けれども、互いが互いの内面に深く立ち入り、その愛を独占したいと願うような感情や関係もまた社会を家族的な関係で結んでいくような愛のあり方とは別の魅力がある。
 だから、「恋愛」はどんな時代や社会においても人々の心を引きつけるのだが、恋愛感情が持つ独占欲は、ときに「愛」の対象を広げていく性質を拒み、その良い面が機能しにくくなるのかも知れない。
 だから片方、あるいは双方に別のパートナーがいる男女の場合、本来なら素晴らしいものであるはずの「愛」という感情も、別の形に歪む可能性が高くなる。
 なぜなら自分の愛情を矯めることなく発揮したいと願う人は、ダブルスタンダードな状況に耐えられなくなるからだ。そのサンプルは、歴史や文学から芸能ニュースまで至るところで見ることができる。
 
 もちろん性差もあれば個人差もある。特に男性は、一夫多妻の歴史や文化が長かったことことから見ても、生物学的にも心理的にも「愛」の対象として複数のパートナーをもつことが可能だと考えられている。
 女性のなかにも「夫も恋人もお互いの家族もみんな大事、みんな愛してる。たくさんの愛に囲まれて幸せ」と言う人もいる。(その真偽は確かめようがない、本人の感覚だから)

 社会環境や歴史が違えば、「結婚」の形態も変わり、男女一組の夫婦を中心とした家族や社会でなくても「愛」を上手く機能させていくシステムがある場合もあるのかも知れない。
 私たちの社会もそのような形に変容しつつあるのだろうか。けれどもそれは一体どんな形なのだろうか? そしてそこに移行するまでの間にどのような過程をたどるのだろうか。不倫ブログとその周辺には、その辺りを読み解くカギがあるような気がしてならない。

 にもかかわらず、不倫ブログ(日記)を綴るその当事者側から、こうした社会全体から見た自分たちの恋愛についての意見や行動が出てこないのが不思議だ。
 自分の「愛」の形にこそ真実がある、と主張するにもかかわらず今のシステムの方に、何か修正するべき部分があるのではないかいうことを、責任ある形で世に問おうとしない。
 たとえば、現行の民法でいうところの有責者側からの離婚請求がもっと認められるような法改正を求めるなどの行動をしている人は皆無に等しい。
 それは、彼らが今の結婚制度をとりあえずでも肯定しているからではないのか。その枠組みの中で自分たちのケースだけは特例だということをより多くの人に認めてもらいたいというのが多くの不倫ブログ(日記)のテーマだと思っている。
 けれども、現状の制度を利用し、そのメリットを受けつつルールを破り「自分たちに限って“特例”を認めろ」と主張するのはアンフェアだ。今のシステムを変える気がないならば、やはり「不正行為」をするべきではない。

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December 10, 2004

婚外恋愛と不倫 5

 誰もが幸福な人生を送りたいと願うのは当然のことだし、そのことは非難されるべきことではない。
 だから、不倫する側から見ればこの「幸福を求める自由」という根拠によって、新しいパートナーとの“具体的なシミュレーション”がどこまでも、可能だということになる。
 不倫当事者の常套句と言われる「好きな人にたまたま配偶者がいただけ」あるいは「結婚後に真に愛すべき相手と出会った」というのは、既婚者でも“(他の恋愛関係と同じように)幸福を追求する自由”があるという事実を根拠にしている。
 そして、こうした男女を配偶者を持つ立場からは、この「自由」を前になすすべがないのが現実だ。もちろん「貞操義務」を根拠に、結婚と家庭の維持を図ろうとすることはできる。
 しかし、それは“好きな異性とともに生きることで幸福を実現する”という当初抱いていた結婚の目的からは大きく逸脱し、ときには自分の人生そのものを否定されかねないリスクが生じるのではないか。
 もちろん、真実はそうではない。配偶者の有無や愛情関係と個人の尊厳は全く無関係なのだが、家庭内の幸福をめぐる「義務」と「自由」のバランスが、大きなリスクをはらんでいることは確かだろう。
 だが、「結婚」を選択する(あるいは「した」)カップルの多くは、この問題をどのように取り扱うかを議論することはないだろう。

 「結婚」が“好きな異性と一緒に暮らし、家族になる”ことならば、不倫や離婚の可能性を示唆すること自体、その意味と目的を否定することになるのだから、それはある意味当然かもしれない。
 けれども、これではあまりに危機管理意識が低いのではないかと言わざるを得ない。なぜなら、不倫(=不貞行為)は、家庭内における「義務」を放棄したことを意味するが、それは同時に「自由」を行使した結果でもある。
 だから、たとえ「結婚」という選択をしていても、“一人の人間として”幸福を追求する「自由」がある限り、「婚外恋愛」を非難することはできないはずである。
 「結婚」がただ単に、“一人の人間として”の男女が好きな相手と一緒に暮らしたり、家族になったりするための装置ならば、「義務」よりも「自由」にプライオリティーが置かれるのは当然の成り行きだ。「義務」よりも「自由」の方が人間を幸福に導くという考え方を根拠に、社会は近代化してきたのだから。

 しかし、「結婚」とは、夫婦となった男女が「家庭」を共同運営していく関係になることを意味し、個人という存在を越えて「家庭」という社会単位を形成させることに意義があるのだという前提ならば話は別だ。
 それでは、「結婚」によって「家庭」を形成し、運営していくことの意味とは何だろうか。
 その答えは、“個人によって”違うのだろうが、「家族」という共同体がさらに大きな社会単位である地域や自治体や企業や、もっと大きく言えば国家や世界といったコミュニティを守り、貢献する存在となるようにすることが目的なのではないだろうか、と考えている。
 この目的を遂行するためにさまざまな「義務」が生じてくるのではないだろうか。たとえば、その共同体の中で「不正」がないようにすべきであるという理屈ならば、“不倫”という「婚外恋愛」が否定される根拠として納得がいく。

 共同体の運営者という立場には“私”を越えた“公”へのプライオリティが生ずる。それはそのような形式を整えればいいという問題ではないはずだ。
 けれども共同体の利益ばかり優先させて個人がないがしろにされる社会も歪んでいる。だから、好きな人と家族になりたい、愛する人とともに幸せになりたい、という個人としての自由をとりあえずは認めた上で、そのことによって解体される共同体の利益も補償させるという、現在の法律は妥当だと思う。
 けれども、このバランスへのスタンスがつかめないと「結婚」という制度は上手く使いこなせない、と私は思うし、今の自分にはその自信がないから、恋人がいてもその選択に対して意欲がわかない。

 家庭という共同体を運営する「義務」や責任が“好きな異性とともに生きること”と両立し続ければ、これほど幸福な人生はないと言えるだろう。
 しかし、現代という時代における「結婚」の意味は“好き”という感情ばかりを根拠にした幸福観ばかりが強調され、もう一つの重大な側面があまりに見落とされているような気がする。
 だからこそ、「好きな異性とともに生きること」という幸福のイメージが崩れたときに、別の視点を持つことが困難になったり、形だけの夫婦や家族を演じることが「家庭という共同体を運営する義務と責任」の遂行だと解釈されるのではないか。 
 その一方で、好きな異性と連れ添う形は「結婚」だけではないということも事実であり、「結婚」の意義や価値が抱えるバランスの危うさが意識されるにつれ、“不倫”を含む「婚外恋愛」の選択肢は増えていくような気がする。

   ・・・・・一旦終わります・・・・・

※もしも、これを読んでいる方で「婚外恋愛」の当事者(既婚者・独身問わず)がいらっしゃったら、取材させていただきたいのでぜひメールをください。

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December 09, 2004

婚外恋愛と不倫 4

 現在、日本の平均結婚年齢は男性28~9才、女性26~7才だそうだ。彼らは何を思い、「結婚」という契約を結ぶのか。
 25才で結婚した当時の自分を振り返ってみると「何も考えていなかった」と言える。単に伴侶を得るということから孤独でなくなるはずだ、とか幸せになれるはずだ、などということは漠然と思っていたように思う。
 その見通しは何を根拠にしているのかと考えれば、“恋愛”や“結婚”に関する情報やそれをもとにしたイメージである。
 物心ついた頃から、私たちをとりまく情報は「恋愛は良いこと」「結婚は幸せなもの」というメッセージを帯びていた。
 だから恋をして相思相愛になると誇らしい気持ちになり、逆に失恋したり、恋人の不在が長いと、惨めさを味わったものだ。
 その“素敵な恋愛”の結果が“幸せな結婚”であり、“素晴らしい家庭”なのだと、無意識のうちに信じてきた。
 そんなイメージの安易さに懐疑的な視線を向けることもあるのだが、あふれんばかりの洪水のような情報に対抗しうる人生経験も、それに基づいたリアリティのある幸福観も当時は持ち得なかった。

 おそらく、多くの適齢期男女も似たようなものではないだろうか。
 誰もが、漠然とした幸福のイメージを抱き、それに沿った人生を送れることを期待して、バージンロードを歩み、ハネムーンへと旅立つ。
 その一連の作業の中に「婚姻届の提出」があるが、恐らくこの行為の意味を重く考えるカップルはそれほどいないだろう。
 しかし、そのことこそが大問題なのであって、婚姻届を自治体の窓口に提出することによって、カップルは恋人同士から夫婦という関係になる。
 二人の性格も価値観も感情も変化はないはずなのに、その関係性だけが劇的に変わる。恋人というプライベートな存在が、それこそ「紙切れ一枚」で公的な社会単位に変貌するのだ。

 プライベートな関係ならば、感情の赴くまま、受け入れるも拒絶するも個人の自由である。好きな者同士が付き合いを続け、その意思がなくなったという理由で交際を絶とうと、自己責任で決定、実行できる関係だ。
 傷ついたり傷つけられたり、というトラブルやそれによる影響はあるにしても、ごく若い時期に経験する友人関係や恋愛関係はそのようにしてスクラップアンドビルドしていくことによって、人間性は成熟すると考えられている傾向もある。
 そうした関係性の延長線上に「結婚」があるとしたら、それは各個人にとって大きなリスクとなり得ないだろうか? 

 好きな異性とともに生きようと考えた男女は、それぞれに幸福のイメージを抱き、それを実現するための方法として「結婚」という選択をする。
 あるいは、「結婚」を幸福の条件と考える人は、それを満たすために共に生きる相手となる異性、つまり結婚相手を探そうとする。
 そのイメージが、生涯にわたってカップル双方ともほぼ一致していれば問題ないのだが、月日が経つにつれて“好き”という感情やその対象となる相手に変化が生じれば、“幸福”の条件も変わっていく。
 さらに、それが意識されるようになれば、最初に抱いていた“好きな異性”である配偶者と共に生きていく、結婚生活は必ずしも幸福に繋がらないだけでなく、不幸せの原因にもなり得るだろう。
 そのような状況下において自分の幸福イメージや条件を満たしてくれる別の異性と出会ったとき、その相手をパートナーとした人生を想像することは、何らとがめられることではない。
 問題は、それを具体的にシミュレーションするような行動を起こすことである。この具体性についてはケースバイケースだが、不貞行為の成立を「肉体関係の有無」とするのが法律におけるとりあえずの基準となっている。

 日本の法律では、夫婦には「貞操の義務」があり、どのような事情や感情があるにせよ、配偶者以外の異性と肉体関係を持つことは「不貞行為」として禁じられている。
 しかし、同時に「法律」は、個人がそれぞれの価値観に基づく幸福を追求する自由も認めている。 「好きな異性とともに生きること」を幸福の条件とするならば、その「好き」という感情の対象や内容が変わったときにパートナーチェンジすることもまた、「自由」である。
 だから不倫をしたからといって身柄が拘束されるわけでもないし、さまざまな条件や障害はあるが、離婚も再婚も認められている。
 この「義務」と「自由」が共存している現状は、実は「結婚」という選択をしようとするカップル双方にとって大きなリスクではないだろうか、というのが私の考えだ。
 
           ・・・・・続く・・・・・

※もしも、これを読んでいる方で「婚外恋愛」の当事者(既婚者・独身問わず)がいらっしゃったら、取材させていただきたいのでぜひメールをください。

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December 07, 2004

婚外恋愛と不倫 3

 4年ほど前、私はネットで自分の不倫体験を綴っている何人かの女性とメール交換をしていたことがある。
 ちょうど、その頃、自分もweb日記を書いており、同じレンタルサイト内やそこからのリンクをたどって見つけた人たちである。
 当時、不倫日記を書いている女性には圧倒的に人妻が多かった。
 そして、不倫という曖昧でありながら、リスクの多い恋愛が生む感情や相手との関係を、たとえ客観性がなくとも何とか自分なりに消化しようとして文章に表現したり、不特定多数が読める形で公開する女性には、ある種の真摯さがあった。
 私が彼女たちとコンタクトを取ろうとしたのは、そんな部分に共感してのことと、その真摯さを恋愛以外で発揮した方がいいのではないだろうか、というお節介からである。

 ひとくちに「人妻の不倫」といってもシチュエーションによっていろいろなケースがある。
 相手が独身なのか、既婚者なのか、自分および相手に子どもが居るのかいないのか、配偶者とはうまくいっているのかいないのか、そして自分に安定した収入があるのかどうかによっても、その恋愛が人生にもたらす影響は大きく変わってくる。
 ここに相手の男性の意思というのはあまり関与していない。人妻の不倫とくれば、男性側は割り切った遊びぐらいにしか考えていないだろうというのが相場だが、実はそのこと自体は彼女たちにとってどうでもいいのだ。
 もちろん恋人からつれない態度を見せられれば、切ない恋心をもてあましてそれを日記に綴るのだが、結局は相手がどうであろうと、自分がそう望みたいと思う方向に考えていく。
 恋人との関係を継続したいと考えるなら、どんなに不誠実な対応を受けてもそこに何かしらの事情や感情を見出そうとするし、別れを決意すれば、それはそのまま相手の決定的な短所となる。
 同じように、不倫という恋愛関係を離婚のきっかけにしたいと思えば離婚し、それとは無関係に今の結婚を続けたいと思えば続けている。
 一見、意志薄弱で流されているだけに見える彼女たちだが、結果的にはしたたかに自分で人生の選択し、それに従って生きているのだ。

 例えば、パート先の同僚との不倫を綴っていたLさんは、最初から夫との関係が上手くいっておらず、交際から1年弱で二人の子どもを連れて離婚という道を選んだ。
 当時大学生だった恋人も今では社会人となり、彼からプロポーズを受けているが、彼女は親子水入らずの生活を壊したくないと考えている。
 また、ネットで知り合った既婚男性との再婚を目指していたMさんは、離婚訴訟中に相手が心変わりした結果、家庭も恋人も失うことになった。
 離婚後、それまで専業主婦だったMさんは仕事を始め、別の男性と恋愛し、今では恋人と子ども(三人のうち末子だけだが)と暮らしているそうだ。
 その一方で、恋人への思いを胸に秘めたまま「親としての責任を果たすまでは家庭に留まる」と、熟年離婚を決心しているPさんという女性もいれば、恋人への恋愛感情とは別の形だが、夫とも確かな絆で結ばれているから離婚など考えていないというAさんのような女性もいる。

 彼女たちを非難することはたやすい。確かに“不倫”は法律で禁じられた不法行為だし、彼女たちの自分勝手な感情と行動で、多くの人を悲しませたり、傷つけたりしていることも事実である。
 しかし、それを真の意味で非難できるのは、その傷つけられた当事者だけであり、事実に無関係な第三者が「不倫だ」「不道徳だ」と罵るなら、まずはその人なりの「倫理」なり「道徳」なりの定義を明らかにすべきだと思う。
 少なくとも私という第三者にとっては、彼女たちが(そしてその恋人たちが)罰せられる根拠は「法律」だけだと考える。
 日本の法律に則った「結婚」という契約を交わし、それを継続させたまま、アンフェアな形で配偶者以外のパートナーを得た、という点において不倫者たちは断罪されなければならないだろう。
 そういう意味で、「既婚者の婚外恋愛」は「不倫」というより「アンフェア」つまり「不正」と表現した方が的確ではないだろうか。

           ・・・・・続く・・・・・

※もしも、これを読んでいる方で「婚外恋愛」の当事者(既婚者・独身問わず)がいらっしゃったら、取材させていただきたいのでぜひメールをください。

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November 24, 2004

婚外恋愛と不倫 2

 心療内科に通院したり、彼と距離を置いた時期もあったが、結局今でもあいまいな「婚外恋愛」のまま続いている。
 その間何かが変わったとするなら、自分たちのありのままを受け入れようとする私の姿勢だろう。
 いつ別れようと、そしてそれによってこの関係が否定されようと、それを受け入れること。そして、彼の心変わりや新しい恋人に対してネガティブな感情を持たないように心がけること。
 反対に自分が心変わりをした場合には、誠意をもってその事実や自分の意思を伝えること。この3年間は、そのことを肝に銘じて彼に向かい合ってきた。
 そして最も大きな変化は、「相手と自分は全く違う人格を持った人間である」ということをしっかり認識したことだ。
 違う人格だからこそ、同じ体験をしても別の思考、反応、行動が出てくるのは当然である。 その当然が恋愛という感情や結婚という契約を経てると、ある種の共同幻想的なフィルターがかかって受け入れ難くなる。
 私の結婚生活などは、その罠にはまって失敗した観が大いにある。
 
 別れなかったもう一つの理由は、伴侶と別れ、せっかく再び異性と向き合うチャンスを得たのだから、簡単には手放したくなかった。それには気持ちだけでなく、肉体的な欲の部分も確かにある。
 「結婚」という契約に至らなくても、お互いの意思を尊重し、誠意ある付き合いができれば、彼をパートナーとし、自分も相手にとってそうなれるのではないか、と思うようにし、それは今でも続いている。

 「愛は4年で冷める」という説もあるように、婚外恋愛というスリリングな関係も、今はかなりマンネリ化し、恐らく彼との関係を支えているのは恋愛感情というより友情という要素が大きくなっていると思う。
 それが不満ならば、お互いに別のパートナー候補と出会う可能性を求めるだけだ。求めれば、そのチャンスはあるはずなのだから。
 しかし、お互いにそれを「選択しない」ことで二人の関係は保たれている。それが事実だが、それ以上でもそれ以下でもない。
 一年後に同じような付き合い方をしているのか、していないのかはわからない。しかし、その結果によって自分を評価しないようになりたい。
 例えば、別れるときの彼の言葉や行動から自分が期待していたような誠意が得られなかったとしても、それを自分の魅力や価値に還元させないこと。
 そうなれれば、私のコンプレックスや生きづらさはかなり克服されていることになるし、この恋愛は自分にとって有効な経験となるはずだ。

 このように、二人の関係の意義や目標を、家族や家庭の構築に設定するのではなく、あくまで「自分の経験値」とすること。 「婚外恋愛」が普通の恋愛関係は違うのは、きっとその点だろう。
 この点を受け入れ、さらに誇りを持てるようにできれば、「結婚を前提としない男女」による「婚外恋愛」は不道徳でも何でもないと私は思う。
 さて、だからといって私はいわゆる「不倫」を肯定したり、応援するつもりはないが、「結婚」の価値が不安定に揺れ動いている時代には仕方のない事象のような気もする。

          ・・・・・続く・・・・・

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November 22, 2004

婚外恋愛と不倫 1

 もう4年以上の付き合いになる恋人がいる。彼とはネットを介した共通の友人が開いたオフ会で知り合った。
 当時、私は離婚してから5年目、仕事ではフリーランスになって1年目で、今後の生活をより確かで強固なものにしたいと燃えていた時期だった。
 にも関わらず、気が付くと数年ぶりの恋愛(とセックス)にのめり込んでいた。
 就寝時刻前の数十分の会話こそが生きる活力であり、車で2時間以上かかる距離に住んでいるため月に2回ほどしかデートはできなかったが、その間はまさに至福の時だった。
 しかし同時に私の心はいつも不安定で苦しかったことも確かだ。それは相手と自分を比べることで生まれる引け目や嫉妬、経験や価値観の差異に対する絶望感、コミュニケーション不全による苛立ち、そうした諸々の状況に自分のコンプレックスが次々とあぶり出されてきたからである。
 
 私はインターネット上で不倫している人妻の日記や書き込みを見かけるたびに読んでいるのだが、いつも思うのは当時の自分である。
 私と恋人の関係は、世に言う「不倫」ではないが、私に子供がいることやお互いの仕事や将来的に発生するであろう両親への扶養義務などを考えると「独身同士=結婚可能」という結論には至らない。
 また、そうした問題がクリアされたとしても、私にとって「結婚は幸福な人生の条件である」という価値観を持てない限り、この付き合いが家庭生活を営むことを前提にはならない。
 そう考えると、彼との関係が「婚外恋愛」に終わる可能性は高確率である。しかし、法律上の「不貞関係」でなくても、結婚を前提としない男女関係は「不倫」に似た部分がある、と言わざるを得ない。

 少なくとも日本では、男女関係が「結婚」という形で認知されることの重要性はまだまだ大きい。それはちょうど個人をどこかしらの共同体に所属させることが「社会化」の第一歩であると考えていることに似ており、 「この男(女)は、この女(男)のコミュニティに属する」という契約と宣言を経て、それより大きい社会への参加が認められるという結婚のあり方にも表れている。
 「結婚して一人前」という考え方をする人はまだまだ多いし、個人としての男と女が連れ添っていても、オフィシャルな関係とは見なされない。実は私自身もその考え方を払拭しきれないでいるから、自信を持てないのだろう。
 
 「結婚を前提としない男女」は、恋愛感情がなくなれば、いつその関係が解消されても仕方がない。どちらがそれを言い出そうと、また、どちらがそれを拒んだとしても、だ。
 そして確かに、私たちの関係にも「結婚を前提としない」ということによってあいまいにしている部分は多い。
 例えば、私の家族には彼を「友人」として紹介し、彼の両親は私の存在すら知らないが、それは「結婚」の可能性や条件を話題にされることの面倒をさけるためである。
 彼らが私たちの関係に納得しなくても、別に困りはしない。「別れろ」と言われてもそれに従う義務はない。
 最終的に自分の判断だけで決められるなら、相手に譲歩させるためのエネルギーを費やすより、混乱を避けるほうが賢明だという考え方を私は選んだ。
 けれど、彼の真意はわからない。もしかしたら「別のパートナー候補者が現れるまでの限定」だと思っているのかも知れない。そのことを聞けば、もちろん否定するだろうが、言葉にあまり意味はないと思うからあえて聞かないのだ。
 そういうあいまいさがお互いがお互いにとってのオフィシャルな存在でないという何よりの証拠であり、その現状を変えるための労力ほどに結婚が価値のあるものだと思っていないということだ。

 にもかかわらず、このあいまいさが私を苦しめている原因でもあった。
 端的に言えば、いつか自分との関係が「無」にされるのではないかという不安、その価値のなさがそのまま自分への評価につながってしまうコンプレックスに対してである。
 結婚という制度に対して日頃から懐疑的な態度や考えで接しているくせに、社会に対してあくまで個人という立場で存在したいと願っているくせに、私は公的な存在に「二人の間には確かな絆がある」と証明して欲しかったのだ。
 付き合って1年目の頃、私はうつ病になった。彼との関係だけが原因ではないが、精神的にかなり消耗していたことは間違いない。  
                     
          ・・・・・続く・・・・・

※もしも、これを読んでいる方で「婚外恋愛」の当事者(既婚者・独身問わず)がいらっしゃったら、取材させていただきたいのでぜひメールをください。


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