裁判をしよう 5(完結)
それから裁判までの間は割と落ち着いて過ごすことができた。真意はともかくとして、手続きの上では私とKさんにおける裁判の利害が一致したからである。
私は出版ネッツ(以下ネッツ)のトラブル対策担当者M氏に経緯を説明し、出版労連の組織・争議対策副部長であるS氏に裁判に向けてやるべきことについてのアドバイスを求めた。
相談に立ち会ってくれたM氏にしろ、このS氏にしろ、いくつものトラブルの経過を見守り、労働者側の立場に立って多くの裁判を支援してきたベテランである。S氏は私に対して次のようなアドバイスをくれた。
まずは内容証明の文書とその返事を裁判所に「追加証拠」として提出すること、今の民事訴訟を少額訴訟に切り替えることである。
「このケースだったら、当事者同士でのやりとりで和解することも十分可能です。何なら裁判を取り下げて代わりに組合担当者が立ち会って条件を取り決めてはどうですか。裁判をするにしても普通の民事訴訟よりも少額訴訟の方がいいんじゃないかな。このままでも多分1回で結審するとは思いますけどね」
ここに来て、組合の立ち会いで和解という選択肢も出てきたのである。けれども、「せっかくここまでやったんだから最後までやってみたい」というだけ理由ではあったが、訴訟の取り下げはしたくなかった。
しかし、少額訴訟に切り替えられるならそうしてもいいと思い、「追加証拠」を提出するときに、裁判所の窓口でその旨を伝えてみた。だが、いったん民事訴訟で受け付けた訴状を少額訴訟にすることはできないと言われた。
そのときである、通路の奥の部屋から女性の金切り声が聞こえてきた。「この人は鬼です!」とか「ひとつ間違えば命にだって関わっていたんですよ!」という言葉を叫んでいる。その合間に男性が「静かにしなさい」「落ち着きなさい」とその声の主に向かって怒鳴る声も聞こえる。
驚いて声のする部屋の方を見てみたら、ドアから最初に叫んだ女性が両脇を男性に抱えられて出てきた。少し落ち着きを取り戻したようで、そばの男性にしきりに文句を言っている。
彼女は原告なのだろうか。いずれにしても、普段の生活では大人が感情にまかせて大声を出す場面になど滅多に見かけないので、それはひどく不自然な光景だった。はっきり言ってしまえば、2時間ものの推理ドラマのワンシーンを見ているようだった。
目の前を通り過ぎる三人を呆然と眺めている私に、Eさんは「心配しなくて大丈夫ですよ。通常の裁判はすぐ終わりますから」と言い、それは本当にその通りだった。
裁判当日、ネッツからM氏と執行委員のSさん、Yさんが傍聴に来て頂けることになった。最寄りの駅で待ち合わせ、私の車で裁判所に向かう途中、M氏から本当に先方から出された和解の条件でいいのかと確認された。
確かにM氏が言うとおり、Kさんが出してきた条件とは、3年以上前から支払いが滞っている金額をさらにこれから2年かけて払うという非常に気の長い話である。
「そりゃ、せめてあと3回くらいで払ってもらいたいのが本音です。けれどもそれができないから裁判まですることになったんだと思います。私にとって一番大事なのは、数千円ずつでもきちんと支払ってもらえることで、その約束が反故にされないことです。時間がかかっても、ランニングコストの一部をKさんに負担してもらってると思えればその期間は私にとって無駄じゃありません」と私は言った。
けれども、その自由はあるだろうということで、一応裁判では「支払期間の短縮化」を主張することにした。ここまできたら「どんな経験を得られるか」ということもこの裁判の重要な収穫になるはずだ。
裁判所には10時10分前に到着した。霞ヶ関はいざ知らず、田舎の小さな簡易裁判所には待合室のようなスペースさえなく、受付窓口前の、私が証拠を揃えたり、印鑑を押すのに使ったテーブル近くにあるベンチ付近で開廷時間まで待っていた。
その日の午前中に行われる裁判は確か7件ほどだったと記憶している。原告のほとんどが消費者金融や債権回収業者で、被告は債務者である。
法廷といっても全体で20畳ほどの広さの部屋で、柵で仕切られた傍聴席は14~5人も座ればいっぱいとなった。裁判を行うところはニュースなどで見るように、一番高いところに裁判長の席があり、その一段下に書記官(Eさん)が座る。入り口の近くに受付などの事務手続きを行う役職はわからないが、職員がもう一名陣取っていた。
そこで受付を済ませた後は、傍聴席で待つように言われ、Mさんたちと4人で他の人の裁判を傍聴することになる。
裁判長の席の下に被告と原告が向かい合って座る席がそれぞれある。裁判長の席との高低差は激しく、実際に座ると真上から見下ろされているような印象があった。
私の前に3件ほどの裁判が行われたが、はっきり言って内容は頭に入っていない。やはり緊張していたのだろう。そうしているうちにKさんが法廷に入ってきた。風邪を引いているらしく、マスクをしている。それでも私と目が合うとお互いに軽く会釈した。
いよいよ私の番がきた。今考えるとテープレコーダーで録音をしておけば良かったのだが、持参はしていたものの、すっかり忘れてしまった。従ってこれから先のことは、記憶だけを頼りに書いている。
どうやって始まったかも忘れてしまったが、確か原告被告双方の名前が呼ばれ、訴状と答弁書の内容を早口で読み上げた後、裁判長はKさんが提示してきた和解の条件を私に確認した。
私はそれに対して、予定通り「希望としてはもう少し支払時期を短縮していただきたい」と言うと、Kさんは即座に「それは無理です」と答えた。
それを聞いて裁判長はKさんに「あなたの仕事は何ですか?」と尋ねた。「書籍の編集です」とKさん。裁判長は私に向かって「あなたね、この人はこれ以上の条件では払えないと言ってる、だったらこれで納得するしか仕方ないんじゃないの」という内容のことをくだけた口調で言った。
「けれどもそんなに長期間にして途中で支払いが途絶えたらどうなるんでしょう。それが心配です」と私が言うと、裁判長は何かを書きながら左手で私を制するような動作をして言った。
「それはね、ちゃんと調書に書きますから」と言いながらその場でメモしながら7つの和解条項の文案を慣れた様子で作成し、途中で私に銀行の振り込み口座を聞いた。私は財布からキャッシュカードを取り出して銀行名、支店名、口座番号と名義を告げた。
裁判長はなおも早口で和解条項を読み上げる。「3、被告が前項の分割金の支払いを2回以上怠り、その金額が*円に達したときには、当然に期限の利益を失う。4、前項により期限の利益を失ったときには、被告は原告に対し、直ちに第2項の残額のほか、これに対する期限の利益を失った日の翌日から支払い済みまで年10パーセントの割合による遅延損害金を付加して支払う。」
「だからね」と裁判長はKさんに向かって言った「必ず約束どうりに払わなきゃダメよ」。そして私に向かって「ちゃんとそう書いといたからね」と念を押した。
つまり、支払いが滞った場合にはペナルティが発生するようにしたということであり、そのことがKさんに対しては約束不履行への抑制となり、私には安心材料になるだろうという意味なのだと思う。
「なのだと思う」というすっきりしない表現なのは、どうも自分の裁判なのに、私の当事者意識とは別のところですべて裁判長のペースで進められた感があるからである。
それが悪いとは言わないが、本当に「あれよあれよ」という間に私の裁判は終わり、「はい次」と別の人が呼ばれた。正味5分もかからなかったであろうこれらのやりとりに、私たちは法廷を出て「一体今のは何だったのだろう」と顔を見合わせた。
あまりにあっけなさすぎて、遠方から来て頂いたネッツの方々に申し訳ないと思ったくらいである。Kさんでさえ、現住所の場所からきたとすれば片道2時間はかかっているはずである。けれども私たちは一言たりともまともに言葉を交わさなかった。
後日、和解条項が記載された「第1回口頭弁論調書」が出来上がったから取りに来るようにという電話が裁判所から入った。通常は書留で郵送されるらしいが、私は追加証拠の送付などで、最初に預けてあった切手の代金が超過してしまったので取りに行くことになったのだ。
こうして私の裁判は終わったらしい。けれども果たしてこれで本当に問題は解決するのだろうか、という不安は正直に言ってまだ拭えない。
Kさんからの支払いが始まるのは来年1月からである。それから滞りなく支払われ、2年後に完済されてはじめて解決したといえるのだ。
もっと大事なのは、もう二度とこのような憂き目には合わないようにすることだ。具体的にはクライアントを見極め、信頼関係が築けるところだけと取り引きをすることだ。とはいってもそれがなかなか難しいのだが、そうでないところと仕事をすることになっても最低限、料金の不払いだけは防ぐようにしたい。
どちらにしても、これから先の問題であり、裁判イコール問題解決ではないことがようやく私にもわかってきた。では裁判を起こしたことは無駄だったのかといえば、決してそんなことはない。
この裁判の大きな収穫のひとつは、いろんな人に助けを求め、支えられたという経験が得られたことだ。フリーランスの仕事は、基本的に一人で成立し、問題に直面したときも一人で解決することが多い。そのことがトラブルの際の泣き寝入りにもつながっている。
私とて、Aさんを始めとしてネッツの方々や私的な友人知人の助けがなければ裁判などしなかっただろうし、やっても途中で挫折していたかもしれない。
司法制度の改革で裁判所への間口が広がったと言われているが、それでもまだまだ一般市民にとって裁判は非日常だ。けれども、「私にもできた」ということがやはりささやかながらも自信になっている。
支えてもらった人への感謝は次に自分が支える側に立つことで恩返しをしたい。もしも私と同じような問題を抱えた人がいたら、できる限り力になりたいと思って細かいことも含めて長々とブログに書いたし、ここでは個人や法人や金額に関する情報は伏せたが、必要な場合には開示するので、メールでご連絡頂けたらと思う。


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