I'm OK, You're OK. ~「性」は個人的問題にあらず2
『ジェンダー・バッシングを超えて 女も男も-自立・平等ー№107』(労働教育センター)の仕事をしました。私はこのなかで3本のインタビュー記事と2本のルポルタージュを担当しています(本書での筆名は「藤崎」ではありません)。
・ジェンダー・バッシングの意味するもの -経緯と背景 (細谷実氏/関東学院大学教授)
・男女共同参画基本計画(第2次)策定過程での「ジェンダー」論争(ルポ)
・社会システムとジェンダー 誰にも出番があり、やりなおしできる社会に(大沢真理氏/東京大学教授)
・いまこそ、子どもの現実に即した性教育を(原田瑠美子氏/東横学園中高等学校教諭)
・医療従事者とのネットワークで性教育を(ショートルポ)
これ以外にも興味深い記事がたくさんあり、多くの人に読んでいただきたいと思っています。(インターネットでの注文はこちらから)
さて、ひと通りの取材と編集過程を経た今、書き足りていないこと、後から気が付いたことなどをここで綴ってみたい。
とくに本文中には書けなかったが、内閣府に取材したとき男女共同参画基本計画(第2次)策定に携わった担当者から受けた、疲弊しきったような印象は忘れられない。
たしかに立場によって大きく考え方が異なる「男女」の問題を「社会」的に論じながら、それぞれをなるべく中立的に採用し、政策に活かしていくという作業は、考えただけでストレスのたまる仕事だっただろう。
しかも、現在の男女共同参画会議議長は安倍晋三議員である。次期首相候補にして保守派の先鋒とされる人物であり、山谷えり子参議院議員とともに「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」を立ち上げ、政府や自民党内でのジェンダー・バッシングを担ってきた。
その彼が目指すところの「男女共同参画社会」とはどういうものなのだろうかと考えると、今なお続いてるであろう件の職員の苦悩が容易に想像できてしまう。
だからこそ私は本書のなかで次のように書いた。
「(立場や考え方を包括的にとらえたという意味で)名より実を採ることにした内閣府の判断は賢明だったと思う。また、「ジェンダー」を定義付け、その認識を広めていくという姿勢も評価する。なぜなら、わが国の現状では「「社会的性別」(ジェンダー)が存在する」という認識を根付かせることが、まず第一義と思われるからだ。」
この記事でも書いたけれど、「性」というのは多くの場合、個人的な問題として扱われる。
男女が違うということ、性差があるということは、どうしようもない事実である。だから男であれ、女であれ、それぞれがその現実を受け止めて、その前提のうえで自分の生き方を追求すればいい。
その結果がどうであれ、それは個人の能力や努力によるものであり、社会的な課題とは一切関係ない。これが「生物学的性別=性別」とする社会の前提だったと思う。
しかし、「ジェンダー(社会的性別)」という概念の出現によって、それが必ずしもそうではない、ということが明らかになってきた。
教育や就労などの機会を均等にしていくことで、個人の能力や努力、あるいは運、そしてそれらの組み合わせによって生まれている状況を越える変化があるということが、いろいろな事例によって証明されたのである。
この“いろいろな事例”を生んだ「教育や就労などの機会均等」の裏には男女雇用機会均等法や育児休業法、男女共同参画社会基本法などの法整備や社会システムの枠組みがある。
けれども、かつての「“性”は個人的な問題である」という前提ともそれなりに折り合いが付いている人にとってはこのような流れも「私たちは男性は男らしく、女性は女らしく振る舞い、生きることで上手くやってきた。だからこれからもこのやり方を変えるつもりはない」という反応があって、それは今でも続いている。
そしてもうひとつ、今後の課題や達成目標はまだあるものの、男女共同参画社会という成果がそれなりに得られている現実のなかで、それを支えているいろいろな制度を意識しないまま、「“性”は個人的な問題である」という意識に回帰してしまっている人たちもいる。
多重構造の「ジェンダー・バッシング」のなかでも、この二つの層は厚い。だからこそ、「「社会的性別」(ジェンダー)が存在する」という認識を根付かせることが、まず第一義」だと思ったのだ。
今後、彼らと共有すべき認識は、「ジェンダー・フリー」あるいは「ジェンダーに敏感な視点」という概念が個人の生き方を束縛するものではないということである。
“性”そのものはきわめて個人的な領域に属しており、自分のセクシャリティをどうとらえ、表現していくかということは、基本的に本人の決定権に委ねられるべきだ。それを社会的に保障するということがまず重要だろう。
たとえば私は自分の女性性に対してアンビバレントな感情を抱いているので、さまざまな場所における、さまざまな人に対するコミュニケーションでセクシャリティを含む自己を上手く表現できているとは言いがたい。(これが上手い人がいわゆる「いい男/女」と呼ばれる人なのだろうなと思う)
そして、パートナーに対するコミュニケーション能力の低さが離婚原因の一端であるとしても、そのことが社会的なハンディを負うことにつながってはならないと考える。
事例を私自身から離すと、トランスジェンダーを含め、すべての人にセクシャリティを含めた「自分らしさ」があり、それを表現することへの抑圧が社会的に行われてはならないし、逆にセクシャリティのあり方について一定の基準を設けたり、それが押しつけられることがあってはならない。
「ジェンダー・バッシング」のなかにある考え方もまた、セクシャリティのあり方について社会的な基準(「結婚後の女性も就労すべきだ」「男性も家事や育児をすべきだ」など)があることへの不快感なのだと思う。その不快感に基づいた誤解を解かなければならない。
「社会的性別」(ジェンダー)は存在するが、それに対してどういう立場をとり、どう扱うかについての自由は、数の大小を問わず社会が最大限保障しなければならない。
だから当然、従来の「男らしさ、女らしさ」を自分のセクシャリティとして表現することに対しても認められるわけである。
「男女がそれぞれの違いを認め合う」のではなく「個人がお互いを尊重できる」ための枠組みとして「ジェンダーに敏感な視点」はこれからも大事にしていかなければならないだろう。



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