July 30, 2005

ニートの水増し 大きなお世話

【<ニート>前年と同数64万人 05年版労働経済白書】
 厚生労働省が22日公表した05年版「労働経済の分析」(労働経済白書)で、学生ではなく働いておらず、職業訓練もしていない若者「ニート」の人口が昨年64万人だったことが分かった。(中略)
 同省は昨年の同白書で、ニートを「非労働力人口のうち15~34歳で学校を卒業した未婚で、家事・通学をしていない者」と定義、03年は52万人と発表。しかし、不登校の学生らや既婚者も含めるべきと判断して、ニートを「15~34歳で家事も通学もしていない非労働力人口」として集計した。それによると、03年も64万人だった。(後略)            (毎日新聞) - 7月22日
                               
 何かについて情報をつまみ食いしているうちに何となくわかった気になっていたけれど、仕事で取材したり記事にまとめているうちに、実はよくわかっていなかったということに気が付くことは多い。
 そうしてひとつの仕事が終わる頃に「無知の知」を実感して、ようやく問題の入り口にたどりつくということを繰り返している。その結果、私の前には入り口だらけ、多分どの入り口から入っても中はつながっている気がするのだが。
 さて、最近、仕事でニートについて書く機会があったのだが、これについて知ったような気になっている人も多いのではないか。
 実は私もその一人で、それまでニートの正確な数さえ知らなかった、というよりニートの数が厚生労働省と内閣府で違うということも知らなかった。

 「ニート」とは、平成16年の労働白書から、はじめて「非労働力人口のうち15~34歳で卒業者かつ未婚であり、通学や家事を行っていない者」について「若年層無業者」として定義し、2003年に52万人と集計された。
 上の記事の通り、今年から厚生労働省による現在の定義にはこれに「不登校の学生らや既婚者」も含まれるようになり、その数は64万人となった。
 さらに内閣府によると、未婚の「家事手伝い」も「ニート」と定義したことによって、その数は85万人(2002年時点で)にまで膨れあがった。
 けれども言葉の意味を変えることで、いきなりその数が急増するのは、冷静に考えたらかなり不自然なことではないだろうか。

 こうして「ニート」という言葉の周辺を調べただけで、いわゆる“ニート問題”とは別の問題点がいくつも浮かび上がる。その最たるものは、「ニート」の数を増やして、政府は一体何がしたいのだろうか、という疑問だ。
 どうやらニートに対していろいろな就職支援をして「経済活性化」をしたいらしいのだが、私の頭には「大きなお世話」という言葉が浮かんだ。

 確かに「仕事」というのはないよりはあった方がいい。それは、個人が社会につながるための有効な手段だからだ。けれどもそれが「仕事」ではなく「趣味」や「家事」ではいけないというわけではないはずだ。
 たとえば絵を描いたり、音楽を作ったり、演奏したりするという芸術活動の多くを、経済を伴った「仕事」とすることができるのはごく一部の人である。
 では、それ以外の人は「趣味」をそこそこにして、別の「仕事」をせよというのかも知れないが、そうせざるを得ない人の多くはすでに「フリーター」として働いているし、たとえ対価としてペイしていなくとも彼らのアーティストとしての活動を否定し、「無業者」のレッテルを貼るのはいかがなものだろうか。 
 また、「家事」についてどのように定義しているかも疑問だ。「家事をしていない既婚者」「家事手伝い」という言葉のなかの「家事」について、政府はどう解釈しているのか。一軒一軒の家庭を見て回り、その内容によって「無業」であるかどうかを判断したとでもいうのわけではないだろうに。
 
 確かに少子高齢化社会を迎えて、産業の空洞化や税収の低減化によって、今のような社会保障制度が支えられなくなるから何とかしなければ、と焦る政府の言い分はわかる。私だって年金も欲しいし、各種保険の適用も受けたい。
 けれども個人が行う活動やそれぞれに抱える事情について、公的な機関が一方的にその価値を断じ勝手に「支援」しても効果はないだろう。
 それは何年も少子化対策を講じ続けているにもかかわらず、相変わらず出生率が低迷しているのと同じ構図でのような気がする。
 ニート問題の議論で、必ず取りざたされるのが、彼らを支える家族への批判だが、このことについても、少子化社会の根本の原因についても、極論を言えば人が毎年3万人も自死を遂げる世にわが子を送り出すなど恐くてできないというのことではないのか。

 「ニート問題」とは「ニート」なる存在の者が多いことが問題なのではない、と思う。
 私は会社員も主婦(専業・兼業)も経験しているが、今の状態が一番「仕事」というものを通じてダイレクトに社会につながっていると実感している。
 けれども収入や労働時間といった数値で表せるデータをトータルで集計したら、おそらく今の状態が最も「無業」に近いのではないかと思う。
 ちょっとした言葉の違い、集計方法の違いであっという間に水増しされる「ニート」に、いつ自分がなるかはわからないが、公的機関のレッテル貼りとそれに伴う就業支援には「大きなお世話」と言いたい。
 そんなおタメごかしではなく、「仕事」によって各人が社会とつながることが喜びとなるような世の中にするために、「ニート」諸君の力を借りたい、というスタンスで問題に取り組むなら、もっと違う効果も得られるかもしれない。

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January 08, 2005

結局何が言いたかったのか?~“アルカイダ潜伏”

【報道スペシャル  日本に迫る危機発覚…衝撃のテロ計画独占告白…仮面の男の恐怖の正体 】
「独走スクープ!アルカイダ潜伏」
報道スペシャル◇1999年から2003年にかけて国際テロ組織アルカイダ系のテロリストが日本への出入国を繰り返していたことが、昨年5月に判明した。フランス人リオネル・デュモン容疑者はなぜ日本に潜入し、日本で何をしていたのか。アルカイダ日本潜伏の真相を追って、国内はもとより欧州、米国、中東、アジアなど世界各地を取材。テロリズムを取り巻く米国と中東の知られざる変化を解き明かしながら、日本に迫る危機の現実を明らかにする。

放送日時 1月8日(土)13:00~14:30 フジテレビ Gコード(670601)

 何気なくチャンネルを回しているうちにこんな番組を見つけた。最初は“ながら見”だったが、次第に引き込まれていった。つまり面白かったのだ。
 しかし、見終わって少し冷静になってみると、いくつもの「?」が浮かび上がる。この番組は一体何が言いたかったのだろうと。
 
 2003年にドイツで逮捕された国際テロ組織アルカイダの主要メンバーであるとされるリオネル・デュモン容疑者、彼はフランス北部の小さな町で生まれ育ち、兵役に就いていた21才の時にソマリアに出兵。そこで何かに影響され、イスラム教に改宗。その後ボスニア紛争ではイスラム系組織の一員として参戦し、テロリストとしての道を歩み始める。
 故郷ではまじめで正義感の強い青年だったと言われる彼が、なぜテロリストになったのか? そして何をしようとしていたのか? それを知ることで、私たち一般市民のテロに対する認識や戦争に関する考えを深めるのが、番組の主旨なのではないかと思っていたが、エンディングで語られた結論は非常にお粗末なものだった。

 あいまいにぼかされてはいるが、結局、この番組の主旨はテロ対策警備強化への理解を求めることだったのか? と思われても仕方ない構成だった。
 例えば、アメリカで起こっているイスラム系住民に対する差別は、テロリストへの支援という嫌疑によって逮捕され、身体にGPS発信器を取り付けられた形で仮釈放されたイスラム教指導者と飲食店経営者の映像として表現されるが、その批判に対してFBIの担当者は次のように語る。
「確かに彼らは『いい人だ』と言われているでしょう。けれどテロリストではないということをどうやって証明するんですか?」と。
 これがそのままこの番組のエンディングに繋がっているのだ。ラストでは、丸の内のオフィス街に立った安藤優子キャスターが年末年始の公共機関におけるテロ対策の警備について触れ、「誰もがテロリストとなりうる時代を我々は生きています」と語る。しかし、それで終わられては救いがないではないか。

 確かに日本に潜伏していたデュモン容疑者も善良な外国系市民を装っていたことが番組のなかで示されている。それは彼が常連客として訪れていたカフェのマスターの証言だったり、友人宅に残していったキティちゃんグッズだったりするのだが、同時に冷酷なテロリストとしての一面も暴かれている。
 しかし、善と悪の二面性などというものは、多かれ少なかれ人間なら誰でも持ち合わせているではないか。10年前にカルト教団が起こした事件や、“目立たないタイプ”の少年が起こす凶悪事件だけでなく犯罪の多くは人間のなかにある悪の部分が起こしたものだと言えるだろう。
 だから、一般社会のなかで日常生活を送る我々は、何が人間の悪にスイッチを入れるのかを知らなければならないのではないだろうか。「報道」とか「ジャーナリズム」と名の付くものの大きな目的のひとつはこの必要性に応えることだと思う。

 にもかかわらず、この番組の中ではデュモンがテロリスト、つまり犯罪者となり殺人を犯していく過程がまるで明らかにされていない。
 故郷や潜伏地では“いい人”であり、ボスニアの一部の人からは英雄扱いされているが、その反面、狂気ともいうべき残忍さを見せていたというデュモン容疑者。
 何が彼を狂気に駆り立てたのか。その真相は、デュモンが市民として兵役に就いたソマリアで体験したことことにあるような気がしてならないのだが、その点には一切触れられていない。
 特に彼の場合は、それを機に自分を育ててきたキリスト教からイスラム教に改宗するという行動を伴っている。その部分を掘り下げることをしなくてこの番組は成立しないと思うのだが、それがないのはなぜか?
 ごくシンプルに考えれば、その点を追求すれば、戦争の悪について言及せざるを得なくなり、番組はそれを意図的にぼかしたのだと考えざるを得ない。
 
 普通の市民として生きてきた者が兵士として戦場に行くということは、その前にどのような教育や訓練があったとしても、想像を絶する価値観の動転があって当然のことだ。
 それまで、自然死にしか接してきたことのない者にとって、死が、殺人が日常茶飯事の戦場での体験はそれまでの人生が根本的に覆されるような出来事の連続に違いない。それほどに戦争の価値観というのは“普通”とかけ離れていることは、私にも想像できるし、日本人も60数年前に体験したことだ。
 そして、この流れで考えれば、デュモン容疑者がたどった精神的軌跡を、現在イラクに派遣されている自衛隊員がたどらないとは言い切れない、その点についても触れられなければ不自然だ。

 こうした真相に迫ることをせず、あえてぼかそうとする報道というものをあらためて目にし、日本はすでに戦争を肯定する国になったのだと再認識した。
 デュモン容疑者が刑務所内を案内する内容のスクープ映像や、彼やビンラディンの名前が記載された国連のアルカイダ容疑者リストなどは、“大がかりな取材”を印象づけはするが、問題の本質に迫っているとは言い難いのがもどかしかった。 
 むしろ、木村太郎キャスターと容疑者の潜伏地新潟に暮らすイスラム系住民とのやりとりや、同じイスラム教国であるエジプトの変貌を実感する 通訳の様子の方が真に迫っていたが、どちらの取材も中途半端な印象しか残さない。
 「イスラム教徒イコールアルカイダではない」と偏見に対して憤慨する被取材者に対して「そのことを知らせるために取材しているのです」と木村キャスターは語るのだが、そこで話が終わっていては彼らとの溝は縮まらない。彼らの顔をきちんと出して、主張に耳を傾けるところまで報道すべきだったのではないか。
 また、エジプト社会の保守化についても、もっと掘り下げた報道がなければ、結果的にイスラム教への偏見を助長する形にしかならないのではないか。
 自分の足下である日本の市民社会から、国際テロについて考えるという、良いコンセプトの番組を見ることができた喜びが大きかっただけに、この中途半端さがとても残念だ。

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