August 17, 2007

戦争をテーマにした作品

朝の情報バラエティ番組「とくダネ!」(フジテレビ系)を何気なく見ていたら、そのなかのワンコーナーで終戦記念日にちなんだレポートをやっていた。

それは、この夏、第二次世界大戦をテーマとした日系米人監督による二つのドキュメンタリー作品が上映されているという話題を皮切りに、二人の元米軍兵士が同世代の敵国軍人であった元特攻兵に会いに行く様子をレポートしたもの。
そのうちのひとりは、自分の体験もさることながら、捕虜になった従兄弟が精神を病んだ末に自殺を図ったという事実によって日本へのわだかまりを長い間抱え続けていたという。
特攻兵が出撃のときに歌ったという『故郷』に涙し、「彼らも同じ人間だったんだ」握手を交わす。

ちゃらちゃらした話題が多い朝のワイドショーの枠で、ほんの10数分とはいえ、いい企画だったと思う。
しかし、あまりにも時間が短すぎ、内容が浅すぎるのが残念だ。
興味のある人は、これらの映画を見てください、と言われても劇場まで足を運べる人はどれだけいることか。
『ヒロシマナガサキ』
『TOKKO 特攻』

戦争を防ぐ(なくす)ことへの取り組みは、あらゆる戦場が自分たちの生活空間と繋がっているという事実に対する想像力と認識だ。
そうでないと、結局は「勝てば官軍」的な、矮小な平和論の域を出ることができない。

戦場をリアルに実感する。
これは言葉で言うのは簡単だが、実行することは相当に難しい。
“戦場の実感”など、日常生活に持ち込んでしまったら、生きることさえ苦しくなるかもしれないから。

戦場の悲惨さという事実から逃げず、溺れず、突き放さず。
見る者にそのイマジネーションを喚起させる

戦争をテーマとした作品の質を決定するのは、目を背けたくなる現実への距離感だ。

上記2作品は未見だが、ぜひ見たいと思う。
昨年見た『蟻の兵隊』や最近DVDで見た『ホテルルワンダ』『ロード・オブ・ウォー』なども、そういう意味でいい作品だ。

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September 20, 2006

「結婚できない男と女」のこれから

 「結婚できない男」、最終回を見た。テレビ自体あまり見る方ではないのだが、それでも最近見たドラマのなかでは続きを楽しみにしていた作品だ。
 いろいろ考えさせられる部分もあったけど、基本的にはラブコメディという展開なので、最後には阿部寛扮する信介、夏川結衣扮する夏美が結ばれるんだろうなとは思っていた。
 けれども、単純に“結婚できない男”が結婚できてめでたしめでたし、という終わり方だったら、かなり不満が残ったはずだ。
 その点、結婚という形を安易にハッピーエンドとせず、本当の意味での結論は視聴者に任せたという終わり方は良かったんじゃないだろうか。
 
 正直な話、信介のような個性を持つ男は、私の身の回りにもたくさんいる。
 彼らが“結婚できない”大きな原因は、かつて「男(それも“一人前の”などという形容詞がつく)」という属性に不可欠だった経済力の問題でも、ドラマで表現されていたような異性とのコミュニケーション能力の欠如でもないと思う。
 むしろ、物質的な豊かさという点において、誰かと生活する意味が見出せなくなった結果としての長期独身化であり、それは男性だけではなく「結婚できない女」にとっても同じだろう。

 物理的な理由が限りなく少なくなれば、残る結婚の意味は心理的、精神的なもので、ほとんど「一人で生きていくのは寂しいから」という一点に絞られていく。
 けれども、私の経験から言えば、一人でいるために感じる寂しさは、人と一緒にいて感じる寂しさよりも、ずっと合理的なのだ。

 「誰か(主に家族やパートナー)といること」イコール寂しさとの決別だという思い込みがあるからこそ、そのときに感じる寂寥感や孤独感は不条理であり、ときに絶望さえもたらす。
 だからこそ、寂しさの原因を、私は長い間、愛情の問題にすり替えていた。
 自分が愛情を持っている対象と、あるいは自分が対象となっている愛情の持ち主と一緒にいれば、孤独という問題はいとも簡単に解決すると思っていたのだが、どうやらそんなに単純ではないことがわかってきた。

 愛情と孤独感の問題は、まったく別の次元で語られるべき感情であり、そこに因果関係を見出そうとする視座こそが、絶望への入り口なのではないか、と。
 そして、「孤独」が必ずしも不幸を意味しないこともわかってきたし、誰かと一緒にいることが幸福を保証するものでもないということがわかってきた。

 人と一緒にいて寂しさを感じないために努力することは、結婚生活をはじめとする共同生活や集団生活にとってとても大事なことだろう。そのモチベーションを保ち続けることも。
 けれども、そんな努力が自分の人生にとって、本当に必要なのかということも、私にとっては疑問なのだ。
 最近は、しきりと費用対効果という考え方が持ち出されるが、やはり費やしただけのエネルギーに見合う結果を得たいし、その結果は自分にとって意義あるものであってほしい。 

 「孤独」に対する恐怖感を取り除いたとき、果たしてどれだけの人間が、結婚や家庭という方法論を自分の人生に取り入れていくのか。
 そう考えたとき、「結婚できない男」も「結婚できない女」も、別にこのままでもいいんじゃないの、と思う。
 少なくともその反証として「あたたかい家庭」とか「すてきなパートナー」「大切な家族」やらが、幸福な人生の条件だとするイメージ(私はこれを「サザエさんコンプレックス」と呼ぶ)に幻惑されないようにしたい。

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August 02, 2006

誰も殺さずに死ねる幸せ

 『蟻の兵隊』を観た。けれども、先に私的なことを書く。
 私の父は昭和5年生まれ。いわゆる軍国教育を受けた世代だ。旧制中学在学中に軍需工場に徴用され、そのまま中退し、15才の時に終戦を迎えた。
 戦後も学校教育に復帰することなく、その後は高度経済成長を支える一員として猛烈に働いてきたことが彼の誇りだ。

 私はそんな父から戦争について聞いたことがほとんどない。ときたま、あと数ヶ月戦争が続いていたら自分も徴兵されていただろうということ、厳しい軍事教練の体験、空襲の恐怖や戦後の食糧難のなかでの飢えなどについて断片的な感慨を語るだけだ。
 そしてその後、必ずと言っていいほど、母や私や息子や甥、姪といった戦後世代、それを育てた戦後教育への批判が続く。
 父にとって戦前・戦中の価値観は否定しきれないものであり、第二次世界大戦で日本がしてきた行為に対しても「仕方のないことだった」「過ぎたことを蒸し返しても仕方がない」とやや苦しげに言う。

 それに対して真っ向から異を唱えた時期もあったが、今の私はあえてそのことに触れない。どこまでいっても平行線に終わるに違いない不毛な会話を続ける不快さに耐えられないのもあるが、やはり、自分が体験したこともない体験によって、(おそらく)心の傷を負っているであろう相手を責めるのは不遜のような気がするからだ。
 そして、戦後の平和な日本に生きる自分も、国際社会という枠組みから見たとき、決して無垢な存在ではあり得ない。その現実が目の前に横たわっていることを見て見ぬふりをして、あの時代を担った日本人の一人として彼を糾弾することができないのだ。  

 話を映画に戻すと、日本軍山西省残留問題という枠組みで見た“蟻の兵隊”訴訟の原告たちも、戦場では加害者とならざるを得なかった事実が浮かび上がる。
 慚愧にうなだれる彼らを許し、姿を見せない上官たちに対する憤りが沸いてくるのはごく自然な感情だが、それさえも戦争という状況の中では、意味を失っているような気がしてならない。
 なぜなら、誰もが自分だけを守ろうとする卑劣さこそが戦争を構成している主要な思想そのものだからだ。自分さえ生き延びられればいいという思考と、自分の属する国家や民族さえ栄えればいいという思考にそれほど広い隔たりがあるようには思えない。

 「日本を守るために、愛する人たちを守るために戦争で戦ってもいい」
このような考えを平気で口にする人たちが増えている。彼らは自分が戦争のなかで死ぬことは覚悟しているかも知れないが、戦場が人を殺す場所であるという現実をどこまで想像できているのだろうか。
 映画の中で、今は老人となった元初年兵は、訓練で人を殺したときの様子をリアルに語る。戦争さえなければ決して敵対することのなかった相手がときに憎しみを込めた目でこちらを見つめ、ときに悲しげに命乞いをするなかで、その身体に刃を突き刺すときの恐怖。
 おそらく、その瞬間から、多くの兵士は人間以外の何かになるのだろう。それを彼は「(自分は)殺人マシンにされていた」と語り、「(あのときの私は)鬼でした」と述懐する元中尉も登場する。
 
 そうした戦争の現実を考えさせないように、狭い戦車の中なかで大音量のロック音楽を頭に流し込みながら、イラクで戦う米軍の兵士たちの様子が『華氏911』では描かれていた。そうやって「任務を果たす」ことだけに専念させるのだそうだ。
 『蟻の兵隊』の戦場では、虐殺、強奪、強姦と、戦場では悪の限りが繰り広げられていた様子が語られる。そのリアリティの前に、正確な死者の数は何人だったのか、「慰安婦」がいたのかどうか、という議論はまったく本質から逸れたものであることを実感させられる。

 要するに戦争は悪である。人間が人間として生きるためには、どんなことがあっても避けるべきものだ。そんなことを言うと、敵にやられてもいいのか。無法者に命を差し出す覚悟があるのかと問われるかも知れないから、ここではっきりさせておく。
 人はいつか必ず死ぬのである。それだったら、誰も殺さずに死んだ方がいい。私の愛する者たちも、願わくば誰一人として殺めることなく人生の幕を下ろして欲しいと私は願う。
 戦争という問題は、一人ひとりが限られた人生のなかで、人を殺すのか、殺さないかという究極の選択なのだという認識が今こそ必要だ。

 とにかく自分やその眷属さえ生き延びられるのなら、人を殺すことも厭わない、できるなら戦争はそういう人だけでやって欲しいのだが、そうは思っていない人たちが現実には犠牲になっている。それもまた戦争の悪である。
 この映画を見れば、誰も殺さずに人生を終えられるということが、どれだけ幸せなことか実感できるだろう。

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July 07, 2006

『功名が辻』があぶない

 『功名が辻』、現代風に言うと「名誉への道」もしくはズバリ「出世街道」。今年の大河ドラマは一介の下級武士だった山内一豊(上川隆也)が千代(仲間由紀恵)という賢妻を得て土佐藩主になるまでを描く。
 山内一豊夫妻というと、妻がへそくり(ドラマでは持参金だった)で夫に名馬を買ったという内助の功、はぎれを使って小袖を縫ったという倹約のエピソードなどが有名だ。
 血で血を洗うような内戦と殺伐とした権謀術数がはびこる戦国時代のなかで、こうした夫婦の物語はほっと一息ついて和める話しではある。
 
 にもかかわらず、毎回見終わってから、もやもやとした嫌な気持ちが残るのはなぜか。
 それが明らかになったのは、まず「ジェンダー」に関する仕事をしたことで性別特性論という視点を知ったことによる。

 大河ドラマで女性が主人公となったのは、『草燃える』の北条政子、『おんな太閤記』の北政所、他にも春日局
や日野富子、前田利家夫人などがいるが、そうしたドラマの放映時に必ず出てくるのが、かつての日本女性は今考えられているような性差別に苦しんではおらず、むしろ男性と平等な関係で、自分の力を発揮できる世の中だったというような論調である。これはいつ聞いても違和感がある。
 今回『功名が辻』の脚本を担当している大石静氏も同じようなことを言っていたけれど、戦国時代の女性が男性と平等だったなど本気で思っているのだろうか。 

 確かに、このドラマでは千代と一豊だけでなく、夫婦が対等に会話をするシーンがたくさん出てくる。それはねねと秀吉もそうだし、お市の方と柴田勝家、なんと信長と濃姫までもがそのような関係で描かれている。
 しかし、妻はいつでも夫に対して謙り、相手を立てたり、一歩退いて接していることは変わりない。妻は夫に対して頭を下げながら「おそれながら~でしょうか?」「~でございます」という敬語で話し、夫は妻に対して「~してみよ」「~と申すか」などと横柄な態度である。
 これを一体どういう風に見たら、戦国時代の夫婦関係が対等だの、ましてやこの時代の男女が平等だったなどと言えるのだろうかと思っていたけれど、これが“性別特性論”を前提としている見方なのだとようやくわかった。
 
 ドラマでは信長や秀吉、竹中半兵衛といった当時の大物政治家たちがこぞって千代の有能さをほめたたえる「(千代が)男であったらいかなる武将であったか」と。
 けれども千代の有能さは一豊の妻という形でしか発揮することは許されない。だからこそ千代は一豊を出世させるためにありとあらゆる努力を惜しまず、結果として夫を大名にするという目的を達成させた。
 個人としての選択肢が極端に少ないこの時代、目的だけを明確にしてそれに合わせた自分のあり方を徹底させるしかなかったとも言える。
 そして目的を果たしたという事実の前には、何が対等で平等かといった議論やどのように生きるべきであるかというような方法論は意味をもたなくなる。

 その“ありとあらゆる努力”とは、さまざまなエピソードで語られる倹約や投資であり、試練の夫を励ます言葉や知恵である。
 これらの表現を通じて千代は番組と視聴者共通の“理想女性”として描かれるわけだ。仲間由紀恵のキュートな演技がその“理想”を押しつけがましくない程度に抑えていて巧い。

 もう一つ気になるのが、このドラマのなかでの戦闘や死の描かれ方である。

 実は大河ドラマにおける“戦い”、つまり人と人が武器を手にして殺し合いをすることの扱い方に違和感をもったのは『新撰組!』からでそのシーンのことは、今でも覚えている。
 近藤勇(香取慎吾)が初めて夜盗を斬った後、土方にその後味の悪さを吐露すると山本耕史演じる土方歳三は近藤をこうなじるのである。
 「お前があいつを斬らなければ俺が(あいつに)やられていたんだぞ。そうと知ってそんなことを言うのか」と。

 ちょうど同じ頃、自衛隊がイラクに派遣される直前であり、この会話は国会で特別措置法を制定する際に小泉首相と反対派議員との間であったやりとりを思い出させた。
 「もし相手から攻撃を仕掛けられたらどうするつもりですか? こちらからは攻撃できないし、もししたら戦闘になるんですよ」と詰め寄る議員に対して「仲間がやられそうになっているのを助けようとするのは人間として自然な感情です」などと言って交わす小泉首相。
 近藤の慚愧には平和主義に徹しきれない日本の姿が、それをなじる土方のセリフには「テロとの共闘」を強く促すアメリカ(ブッシュ)が重なり、複雑な思いをしたことを覚えている。

 一方、『功名が辻』には「命を預ける/預かる」というセリフが頻出する。もちろんこれは現実の戦国時代という状況下では非常にリアリティのある発想だっただろう。
 兵士は合戦に参加するにあたって、他の選択が許されないからこそ、ただ大将に命を預け、死にものぐるいで戦うしかなかった。そういう極限状態の人間が殺し合いをする場所が戦場である。
 にもかかわらず、ドラマで描かれている戦闘も死も、リアリティがなさすぎるのだ。極めつけは前回放映された五藤吉兵衛(武田鉄矢)の戦死である。

 腹心の部下である吉兵衛は一豊に手柄を立てさせたいがために真っ先に敵陣に乗り込み、一人で敵に戦いを挑んだ結果討ち死にする。
 そのシーンにはスローモーションが用いられ、最期を一豊に看取られ涙を流しながら死を迎えるのだが、敵味方入り乱れて斬り合っている戦場で、あまりに不自然な光景である。
 そこで印象づけられるのは、吉兵衛の戦死に対する明らかな美化であり、『功名が辻』では、この例に限らず、番組の「企画意図」とは別に、大義なるものに対する命を賭けた傾倒が大きなテーマとなっているように感じられる。

 そう考えていくと、千代という女性像も戦国(戦争)というシステムのなかでのモデルととらえることができる。「お命お持ち帰り下さい」と健気に夫を送り出す妻の姿を、“戦時”としての情景として一般化することの危険性をここで指摘したい。
 運と知恵で戦国を生き延びた山内夫妻だが、命運尽きた夫婦の方がずっと多いという現実と、それに伴う痛みのリアリティがこのドラマには決定的に欠けているような気がしてならない。

 大石静氏のドラマは『私ってブスだったの?』『アフリカの夜』『ふたりっこ』『大人の男』など、シングル(独身というだけでなく、個として自立しているという意味)で生きていく登場人物が魅力的に描かれていて好きだった。
 その良さが『功名が辻』では活かされていないところも多少不満ではあるが、ほぼ毎週見ているのでやはり続きが見たいと思わせる面白さがあることは確かだ。
 けれども、この面白さや軽さが、逆に危険でもあると思ってしまうのである。

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March 20, 2006

鬼教師なんかいらない ~「女王の教室」感想

 「この物語は、悪魔のような鬼教師に小学6年の子供達が戦いを挑んだ1年間の記録」というのがそのドラマのキャッチフレーズである。

 『女王の教室』については以前も書いたが、今週末、2日間にわたってこのドラマの特別編が放映され、作品中ではヒロイン阿久津真矢がどうして“悪魔のような鬼教師”になったのかが描かれていた。

 結論を先に言ってしまえば「だからといって、彼女が本編で子どもたちにしてきたことが正しいという理由にはまったくならない」というのが私の感想である。

 ドラマは彼女の新任時代から始まる。小学6年生にしてはあまりに幼稚な生徒、著しく社会性のない親に振り回され、消耗していく真矢先生。

 当時の彼女は、視聴者のほとんどが「あま~~い!」と突っ込まずにはいられないほどの痛々しい理想論を持って現場に挑んでいくが、クラスはますます混乱するばかりである。

 数年間の紆余曲折を経て、次の赴任先では手の付けられないいじめっ子の問題児と出会い、ラストでは彼を更生させるという話になっている。

 「この世で幸せになれるのはほんの数パーセントの人間、このクラスにいるほとんどの者は幸せになれない」と、いじめっ子は言う。それに対して真矢先生は「世の中にはあなたの知らない幸せがたくさんあるのよ。このクラスのみんなはきっと幸せになれると思う」と言う。

 彼の歪んだ価値観は、あるクラスメートを自殺未遂にまで追い込み、怒った真矢による体罰が暴力事件として取りざたされ、彼女は都の「教職員再教育センター」送りという処分を受けることになるのだ。  余談だが、ここの職員を演じているのが都知事の息子(石原良純)というのは、シャレにならない冗談のように感じるのは私だけだろうか。

 このドラマだけ見ていれば、真矢先生に共感する部分は多い。

 なのに、その後の彼女は、なぜか彼女が対決したいじめっ子少年と同じ言動を、受け持ちの生徒達に行う。

 何しろ担任としての最初の挨拶で言った言葉が「この世で幸せになれるのはほんの数パーセント」というこの彼の受け売りなのだ。

 かつて教え子だった問題児の真似をして、一体この先生は何をしたいんだろうという理由について、真矢先生は校長に「私自身が壁となって子どもたちの前に立ちはだかります」などと説明していたが、まったく説得力がない。

 また、教え子に対して「自分が正しいと思ったことをするときは人の理解を求めてはいけない」というようなことも言っていたが、それも納得いかない。

 主演の天海祐希は、「(教育に一番大切なことは)子どもたちを一人の人間として信じること」と語ったそうだが、真矢先生がやってきたことは真逆のことである。普通、信頼している相手に対し“壁”が必要だなどとは考えないだろう。

 私から見ると、真矢先生の意図というのはあまりに独りよがりで“毅然”とか“高潔”というものをはき違えているとしか思えないのだが、これは制作サイドに問題があると考える。

 百歩譲って、真矢先生の数々の仕打ちが子どもたちへの愛であり、善意なのだという前提を受け入れたとしても、それに対して「大きなお世話」「自分のことは自分で決める」とはね除けられない精神性が問題だ。

 “壁”などなくても、人間にとって困ることなど何もない。むしろ困るのは管理する側の学校であり、国家である。

 真矢先生のような大人に、乗り越えるべき“壁”を作って欲しい、などと甘えたことを思っているうちに壁に囲い込まれないようにしたいものだ。

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February 17, 2006

『誰も知らない』のテーマとリアリティ

 仕事がぽっかりと空いて暇になったので、DVDを借りてきて見た。新作は高いので大体旧作か準新作を借りることになり、今さら『誰も知らない』を見ていたりする。
 この作品を見た多くの人がそうであるように、私も映画の題材となった事件について思いをはせずにはいられない。そして実際に起こった事件と比較すると、映画の中の出来事はあまりにもきれいに描きすぎていることが気になった。

 「気になった」というのは、それが作品の質を左右するという意味ではないが、ただ「カンヌ映画祭出品」とか「史上最年少で主演男優賞」とかそういう記号だけで成り立たせるにはあまりに重いテーマではないかということだ。
 率直に言えば、私はこの作品が何を言いたかったのかがよくわからなかった。
 ただ単純に児童虐待や育児放棄への警鐘を鳴らしているわけではないことは、わかる。よく言われているように子どもたちの表情の豊かさや生きる力のたくましさ、彼らの存在そのものの素晴らしさを、その情景描写とともに感じることもできた。だが、それがテーマなら何も事件ものを題材に選ばなくても、というのが正直な感想である。

 もう一つ考えたのは、人間の中にある野生と社会性の問題である。誰にも生まれながらにこの二つの要素があり、そのバランスを取りながら人は大人へと成長していく。
 けれども現代はそのバランスが取りにくい時代であり、この映画のなかでは母親(YOU)と明(柳楽優弥)の役割は完全に逆転していることがそれを表している。
 また、最初の方ではこの家庭の様子が、まるで母と兄の愛に守られた子どもたちの楽園のように描かれてるのだが、なぜ母親がここまで子どもたちを社会から隔離しようとするのかを考えたとき、そこには社会が押しつけてくる枠組みやそこから外れた者への偏見という問題が浮かび上がってくるのである。

 つまり、本来の成熟のあり方とは、野生と社会性がゆるやかに融合していくという方向性が望ましいはずだが、社会が冷徹すぎることで、野生はますます野放図になることでしかその存在を証明できなくなっている。その結果、両者は完全に対立する構造でしか共存できなくなってしまった。
 中盤以降、この“楽園”が家庭や学校に居場所をなくした子どもたちのたまり場となっていく描写(実際の悲劇はそうしたなかで起こり、それを示唆する場面が一瞬だけ描かれている)に、その指摘が込められているのではないかと思ったりした。
 私の仮定したテーマ設定が的を射ているとして、この問題提起をするのに、実際の事件というモデルは本当に必要だっただろうかと思ったのである。

 人間の野生と社会性というテーマは、『蝿の王』でも描かれており、ここでも子どもだけの閉じられた世界がモチーフとなっている。こちらは完全にフィクションであり、野生が社会性を凌駕していくさまがあまりにリアルで、見終わってしばらくは陰鬱とした気分にさせられた。
 『誰も知らない』の、このテーマへのアプローチはリアリティにおいてとうてい同作品に及ばない。もちろん、リアリティがあるかどうかだけが作品の質を図るポイントではないのだが、視聴者にテーマとなる問題を意識させる力は全く違ってくる。
 この作品は、何倍ものやりきれなさをもって迫ってくる現実と対比させてしまう部分が、テーマへのアプローチという点においてやはり失敗だったと思う。
 とはいえ「作品」としては決して悪い映画ではない。良心的な視点に貫かれていることはメディアとして大事なことだし、演出もいい。
 ただ、あの事件の当事者、関係者たちがこの映画に触れるとき、どのような感情を抱くだろうかということも思わずにいられない。願わくばそれを「作品」として受け止めることのできる余裕を身につけていることを祈るだけだ。

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October 20, 2005

反則なまでに美しい日本映画 『二人日和』 

 知人のライターさんに試写会の券をいただいた。久しぶりにスクリーンで見る映画、しかもはじめてのマスコミ試写会。ちょっとワクワクしながら、築地にある松竹の試写室へ向かう。
 
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 作品は、京都に生きる老夫婦の物語で、妻が不治の病に倒れ、夫が看取るまでの約一年間を描いている。「千年の水で描いた純愛画」というキャッチコピーそのままの、反則なまでに美しい映画である。
 “反則なまでに”という多少皮肉っぽい表現をしてしまったのは、古都の風景と、それにしっくりと合う古武士のような風格の男(栗塚旭)と、老いてなお美しく気高い妻(藤村志保)というモチーフを配置すれば、「美しいに決まってる!」という反発心ゆえだろうか。
 けれども、その反則なまでの美しさは、嫌味のない演出や俳優たちの好演によって、見る者が自然に受け入れられるものになっている。
 何といっても、色気、可愛らしさ、芯の強さといった女性の美点を集めたような藤村志保の存在感が素晴らしい。競演している若い女優が霞んでしまうほどである。
 また、夫婦が最期に言葉を交わすシーンには、やはり涙がこぼれた。本当は、こういうお約束のシーンでは、あまり泣きたくないのだが、事実なので仕方がない。加齢と共に涙もろくなっていることを自覚。
 ラストシーンは、一人になった夫がふと中空を見上げてつぶやく一言で終わる。その言葉は、死別とは何であるかがストンと心に落ちてくるような余韻を残している。 
 男女の愛といえば、ハリウッド映画をモチーフにしたような表現ばかりがあふれているため、愛情というものはそういうものだと思いがちだが、支え合っていくなかで育まれる細やかな情愛というのも、また熱いものである。


『二人日和』 
2005年11月26日(土)より 岩波ホール にて上映

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October 02, 2005

複雑な感動

【NHKスペシャル 「“いのち”の対話~妊娠中絶・医師2人の模索」 2005年10月1日(土)午後9時~9時52分放映 】
 厚生労働省研究班の調査で、16歳~49歳の女性の6人に1人が妊娠中絶を経験、その内の7割が罪悪感を抱いたり、自分を責めていることが明らかになった。こうした女性たちの心に、2人の医師が、対話を通して正面から向き合う病院が埼玉県にある。(中略)
 その日のうちに手術を行う産婦人科も多い中、この病院では簡単に中絶をしない。(中略)迷ったまま中絶すれば、女性の心に深い傷を残すことになるからだ。2人の医師との数週間の対話を通し、女性は胎児の命と自らの人生に深く思いを致し最終的な結論を出す。
 “いのち”をめぐって女性たちの心と向き合う、2人の医師の格闘を見つめる。

 全員ではないが、多くの男女は、セックスを目の前に妊娠、出産に至る“いのち”の重さなど考えていないだろう。私もそうだった。なぜだか当時は自分という存在が“一代限り”のような気がしていたのだ。
 だから、14年前、体調の不良を訴えて病院に行き、妊娠を告げられたときは、まさに動転した。未婚だった私の事情を察した医師は、先に手術の日取りだけ決め、その前にもう一度来院するようにと憮然とした表情で言うのだった。
 結果的に、産む選択ができたのは、私に「産んで育てる」ことが比較的容易だという状況があったからだ。とりわけ、当事者同士にお互いしかパートナーがいなかったこと、どちらも社会人だったことは大きい。この二つの条件が満たされていなかったら、正直に言って息子はこの世に誕生していなかったかも知れない。
 
 番組のなかでは、医師が出産を迷う女性に「(産むという選択は)決してあなたを不幸にしない。むしろこの子の存在がどれほど大きな力を与えてくれるか図り知れない」と力説しており、確かにそのことは私も実感として知っている。
 けれども、もし私の目の前に同じような悩みを抱えている人がいても同じようには言わないだろう。言うとしたら、その女性のなかである程度「産む」という決断ができているとき、あるいは生まれた子に対して、多少なりともフォローができる関係でだ。
 
 つまり、それほどまでにこの社会のなかで子供を産み、育てるということは、個人の“自己責任”に負っている部分が多く、この傾向は、今後ますます強くなる可能性が高い。
 そのような状況のなかに“大切ないのち”を送り出すという選択をすることも、また容易にはできないのだ。
 子どもがこの世に誕生するということは、赤ちゃん本人にとって、その親(産んだ当事者)と家族にとって、そして社会にとって良いことでなければならない。
 その“良さ”とはかつてのように、可愛らしい笑顔や仕草で子どもが大人を癒すからという単純なことだけではないし、家庭の労働力になるから、とか国を支える納税者になるから、という理由でもない。
 では一体、この子の存在とはどういうものなのか、そしてこの子を妊ったの自分にはどういう意味があったのだろうか、これらの命題は人生経験の浅い若い女性が抱えるには重すぎる。
 にもかかわらず、その選択は当事者の女性に委ねられており、しかも決断の期限までにそれほど長い時間は与えられない。

 本当は、そんなことは子供が生まれてからじっくり考えればいいのである。考えながら育てていけばいいのである。
 そうした問題をつきつけて、考えさせてくれるから、「子どもは素晴らしい」のではないかと思うが、その素晴らしさを味わえる余裕が大人側にないのが現実だ。
 それでも「産むべきだ」といえるこの医師たちの姿勢には大きな感動を覚えるが、子どもを生み、育てる責任が親の“自己責任”と言っても過言ではない状況の中では、その選択を諦めることによって果たすことができる“いのち”への責任というものがあることも確かなのである。

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September 19, 2005

それでも真矢がいい? ~「女王の教室」感想

 「まぁ、ドラマだし」「所詮テレビだし」。納得のいかない、どうも釈然としないドラマを見たときの私の口癖である。
 NTVのドラマ『女王の教室』も、見ながら何度こうつぶやいたことか。でも最終回まで見てしまった(途中見逃した回については息子から詳説してもらった)のは、ひとえにラストを知りたかったからだ。
 
 このドラマの前半部分を見たとき、私はこれは独裁社会における政治を“教室”という場で模倣するとどのようになるか、ということを見せるという意図があるのではないかと思っていた。
 クラスの女王こと阿久津真矢先生(天海祐希)を北朝鮮のキム・ジョンイル総書記になぞらえて見ていたのだ。
 それほどに彼女の教室における独裁ぶり、恐怖政治もどきはすさまじかった。クラスのなかにヒエラルキー(成績による階級的序列)を作り出す。自分に逆らう者には徹底的に制裁を加え、集団から孤立させるように仕向ける。
 特定の生徒の弱みを握り、それを利用してコントロールする。生徒に監視役(スパイ)を命じ、密告させることで、集団としての関係性と信頼性を失わせる。その上で集団内での制裁(いじめ)を起こさせ、対立者の尊厳を踏みにじり、存在(感)を抹殺する。すべてファシズムの手法である。
 決して大げさに書いているのではない。本当に見るに堪えないほどの凄惨な場面が子どもたちによって演じられていたのだ。

 後半、あまりの仕打ちに耐えられなくなった子どもたちが団結して真矢先生に立ち向かうのだが、そのなかで誰かが教育委員会のホームページを通じて一連の事実を告発する。
 学校には教育委員会から職員(根岸李衣)が派遣されるが、その前で阿久津先生はひるむことなく子どもたちに持論を述べる。最終回では、すべては生徒を思うがため、という真矢先生の真意を理解した子どもたちが彼女を慕いながら卒業するという“いい話”で終わる。

 確かに、真矢先生の言っていることは間違っていないし、教育現場にありがちな生ぬるい理想論が太刀打ちできないような現実に即した問題への対処法が示唆されている。
 彼女を取り巻く教師陣が、事なかれ主義の校長(泉谷しげる)や、毅然としたところのまるでないベテラン教師(内藤剛志)生徒に馴れ合うだけのOL教師(原沙知絵)というステレオタイプのダメ教師像で、真矢先生のカリスマ性を一層際だたせている。
 だからこそ、視聴者のなかには“真矢(のような先生)待望論”の声が大きいという。
 しかし、本当にいいのか? 私は絶対に嫌だ。真矢先生のような教師が息子の担任になったら、転校も辞さないだろう。

 同番組の脚本を担当した遊川和彦氏は、インタビューのなかで真矢先生のことを「最近、自分も出会えない、『尊敬できる大人』『怖い大人』が描きたかった」と答えている。
 しかし、どんな正論だろうと、それを実現するためだろうと、やっていいことと悪いことがある。強い力を握った者こそ、そうでない者に対して支配するという行為には、確実に「やってはいけないこと」だ。
 だからこそ“権力”というものはそれを持つ者にとって、よりデリケートな扱いを必要とする。日本ではあまり馴染みがないが、“ノーブレス・オブリッジ(貴族としての義務)”という概念がそれだ。

 教師や親にこそ、この感覚が必要なのは、決して生ぬるいきれい事だとは思わない。これを徹底することの方がよほど強い自制が必要で、そうした大人の姿にこそ、子どもは“尊厳”を感じるのではないか。
 問題は、その自制が中途半端な親や教師が多いからこそ(もちろん私を含め)、子どもが大人を尊敬できない、ということなのだろう。

 強権を使って子どもをコントロールすることは、多分たやすい。真矢先生のように子どもに接すれば、そこに愛があろうとなかろうと、彼らは少なくとも大人を脅威の目で見てくれるだろう。けれどそうして得た尊敬や規律や忠誠心が一体どれだけの価値を持つのだろうか。

 “真矢先生待望論”は、無軌道、無秩序な状態を力強い論理と力で引っぱってくれるリーダーを求める声が大きい証なのかも知れない。それが先日の自民圧勝にも重なる、というのもドラマを見終わった後味の悪さのひとつかも知れない。

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August 17, 2005

ただ皮膚感覚の嫌悪感を

 8月15日、60回目の終戦記念日である。
 ものすごく大ざっぱな括りだが“戦争問題”というものについて、私は「戦争は嫌だ。してはならないことだ。平和がいい」という小学生でも言えるようなことぐらいしか言えなくなっている。
 その根拠について、自分なりに学びの機会を失わないような努力はしているし、異なる意見や価値観の者同士議論をすることの大切さもわかっているのだが、本音を言えば、戦争論を論争することの鬱陶しさ、後味の悪さから逃げてしまっているのも事実である。

 多分、戦争を好んでいる人などいないのだろう。皆、平和が一番だと思っているに違いない。けれども、その方法論をめぐって、立場や価値観によって大きな違いが出てくる。
 例えば、平和のために、ときには武力行使が必要な場合もあるという論理に、私は言うべき言葉を失ってしまう。ただ説明のつかない痛みをひしひしと感じるだけだ。
 戦争を否定するなら、当然軍隊というものも否定したいところで、できれば自衛隊などなくしてしまえ、と言いたいところだけれど、では他国からの侵略があったらどうするのか、という問いには具体的で現実的な方法論を言うことができない。
 もちろん、自衛隊が海外に派兵しているという現実には強い憤りを感じているのだけれど、これも「アメリカに従うことが日本の国益を守ることであり、それを失ったら今の豊かな生活はなくなるぞ」と言われると、反論の言葉は語気を失うだろう。
 つまり、私たちの足下を見れば、戦争という現実は常に横たわっていて、それを見ぬふりをして平和論、反戦論を語ることが危うくなってしまっているのだ。

 とても長い前置きだったが、昨日見たNHKの討論番組「日本の、これから ~アジアの中の日本」を見て感じたことは、戦争を嫌悪する皮膚感覚の大切さだった。
 多分、これからの一般市民(庶民)にとっての反戦に必要なのは、どれだけそれを鋭敏に感じ、表現することができるかということなのだろう。
 憲法9条にはそれがある。私は昭和40年代後半から50年代にかけて学校教育を受けてきた世代だが、あの頃はまだ、世の中のムードに戦争の痛みが残っていたような気がする。

 扶桑社の歴史教科書(まだ読んでいないからあくまでも推測に過ぎないのだが)や、靖国神社に公式参拝したがる政治家の言動に漂うムードというのは、この“戦争を嫌悪する皮膚感覚”が決定的に欠如しているのではないか。
 だからいくら平和や反戦を語っても胡散臭く、ときにきな臭さを感じるのだ。彼らの言う「平和」とは、ごく一部の人にとっての「平和」なのではないか、彼らが言う「戦争反対」は「戦争(に負けるのは)反対」なのではないか、と。
 
 教科書問題では、よく「正しい歴史認識」がキーワードになるが、反戦という立場に立つならば、それは戦争がもたらす痛みから逃げずに語る歴史観ではないか、と思う。
 “大東亜戦争”が本当にアジアを列強の支配から解放するための戦争ならば、それらの国々が日本の“進出”によって負った痛みとバランスがとれていたかどうかという検証が起こるのは当然のことである。
 いくつかの国では、戦争で被った損害が、結果として得られたメリットにペイしていたのかも知れない。
 けれども今、抗議行動が起こっている国々(番組では中国、韓国、北朝鮮と定義された、主に櫻井よしこ氏によって)については、要するに彼らの感覚で「ペイできてない。日本がもたらしたメリットを差し引いてても、あの戦争で受けた痛みは大きすぎた」ということなのではないかと思う。
 逆に、空襲や機銃掃射射撃や二度の原爆投下など多大な被害を受けながらも、日本がアメリカを恨まないのは、戦争の痛みを差し引いても、戦後、アメリカからもたらされたメリットが大きかったからだ、と考えられないだろうか。(敗戦によってアメリカからもたらされたもののなかに民主主義があり、知り、考え、表現することの自由がある)

 そして、反戦という立場を離れるのならば、すでにもう「正しい歴史認識」というもの自体が存在価値を失うのではないか。
 「正しさ」つまり正義というものの基軸が、例えば「弱肉強食」とか「国益追求」になったとき、どのような歴史が始まるかを考えたとき、とてつもない恐ろしさが襲ってくる。
 強い者が、より多くの利益を得た者が「正義」であり、「正しさ」を計る権利を得るのだという世界観は、絶望しかもたらさない。
  
 こういう本能レベルの嫌悪感こそが大切で、それを表明できない世の中は、やはり間違っているとしか言いようがない。
 そして、あくまでも「反戦」を貫くのなら、やはりあの戦争は過ちだったと認めることが筋だろう。
 他国がいくら「国益」や「国際社会の地位向上」を追求しようと、日本は「反戦」こそがアイデンティティなのだと腹をくくり、その姿勢を貫いた方が、どれほど「名誉ある立場」に近くいられることか。
 「反戦」の姿勢と戦争の犠牲者(決して「国に命を捧げた人」という表現ではなく)を慰霊する態度は決して矛盾しないし、その方針に則って過去の過を認めることが、「自虐的」に捉えられたり、国を愛せなくなることにはつながらないと思う。
 そしてさらにいえば、愛は強制されたり押しつけられるものではなく、自然に沸き上がる感情だろう。たとえ、国力が衰えようとも、「反戦」を掲げ、「平和」を希求する国が、人に愛されないはずはないではないか。

 こんなシンプルで地味な反戦論が言いにくいという現状がとにかく痛い。でも、この痛みに向き合いながら戦争への嫌悪を表明することこそ「反戦」の第一歩なのだと肝に銘じている。
 

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January 17, 2005

新旧大河ドラマ比較 

 三谷幸喜の作品の魅力といえば、何と言っても“重箱の隅を突く”ような描写だと思う。
普通のドラマでは、主人公や主要人物の引き立て役でしかないような脇役の“小人物ぶり”をあぶり出すところに、ものすごく共感を覚えるし、ストーリーの大筋とは無関係の小さな心理もこぼさずに描くところが、見る人を惹き付けて病まないのだろう。
 三谷作品を全部見ているわけではないが、一番好きなのは『王様のレストラン』だ。主人公は真面目だけれど、どこか愚鈍な印象を与えるレストランのオーナー(筒井道隆)と、狡猾で腹黒いがなぜか憎めないその兄(西村雅彦)である。
 登場人物たちの性格や行動はどこかいびつで、隙があって、それらが生む摩擦がドラマを生み出していく。「どこか」「なぜか」という言葉で表現しにくい人間関係のグレーゾーンの描写が妙にリアルで味がある。
 
 昨年の『新撰組!』でも、こうしたユーモアは発揮されていて楽しめたのだが、それは単に「三谷作品を見ているのだ」という再確認をするための記号でしかなかったような気がする。
 その一番の象徴がタイトルについた感嘆符ではないか。一体、このドラマのタイトルはどう読むのだろう? 強調するのはどの音なのか? という意味があるんだかないんだかわからないようなところからして、今までの大河ドラマとは違う、という記号である。
 そして、はっきりいえば、その“三谷作品らしさ”というのは“大河ドラマ”という記号にマッチしていたとは言い難い。確かに、あれほどの血が流れた幕末という時代における悲劇性の象徴だったとも言える新撰組、彼らのなかにもあったであろう生活のリアリティは伝わってきた。
 例えば、悲劇色が強まる終盤で、敗北に次ぐ敗北を余儀なくされている中、ようやく得られた援軍が「菜っ葉隊」で、その思わず脱力するようなネーミングに近藤と土方が「他に名前はなかったのか」と突っ込みを入れるシーンや、「みかんの皮は残すのに、なんで鶏肉の皮は食わんといかんぜよ?」などと談笑した直後に暗殺される坂本龍馬の様子など、悲劇的状況の中にもある喜劇性、日常の中に潜む悲劇の描き方に説得力がある。
 現実の事件というのは特にドラマチックな展開として起こりうるのではなく、こういう日常の連続の中にあって、その因果関係がもたらした結果によって、後世はそれを「歴史」とするか否かを決めるのだろうと再認識する。
  
 しかし、このように三谷作品に共感を寄せる私ですら、“大河ドラマ”という記号には、大時代めいたドラマチックな展開を求めてしまうのだ。
 今年の『義経』を見れば、「やはりこれぞ大河ドラマ」と心ときめくし、NHKも意識的にこのコントラストを狙っているのではないかと思わずにはいられない。
 史実とはいえ、義経の生涯や平家の盛衰などは半ば伝説めいており、“作りごと”の下敷きとしてはとても面白い。現にこれまで2回分における常磐御前の描かれ方など、「女の一生」のモチーフとして申し分がないではないか。
 これからも『平家物語』で描かれた名場面や、静御前との悲恋や、弁慶の忠心や、“おいしい素材”がたくさんあり、わくわくしてくる。
 こういう歴史のグレーゾーンにこそ、人の想像力をかき立てるテーマがあるのだろう。その意味で、『新撰組!』では捨介(近藤・土方の幼なじみ)やお考(近藤の愛妾深雪太夫の妹)といった人物には生き延びて欲しかった。
 それで、金曜時代劇あたりで『その後の 新撰組!』という作品で、新時代にしたたかに生きる庶民として活躍して欲しかった、などと勝手なことを思う視聴者がここにいる。

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January 08, 2005

結局何が言いたかったのか?~“アルカイダ潜伏”

【報道スペシャル  日本に迫る危機発覚…衝撃のテロ計画独占告白…仮面の男の恐怖の正体 】
「独走スクープ!アルカイダ潜伏」
報道スペシャル◇1999年から2003年にかけて国際テロ組織アルカイダ系のテロリストが日本への出入国を繰り返していたことが、昨年5月に判明した。フランス人リオネル・デュモン容疑者はなぜ日本に潜入し、日本で何をしていたのか。アルカイダ日本潜伏の真相を追って、国内はもとより欧州、米国、中東、アジアなど世界各地を取材。テロリズムを取り巻く米国と中東の知られざる変化を解き明かしながら、日本に迫る危機の現実を明らかにする。

放送日時 1月8日(土)13:00~14:30 フジテレビ Gコード(670601)

 何気なくチャンネルを回しているうちにこんな番組を見つけた。最初は“ながら見”だったが、次第に引き込まれていった。つまり面白かったのだ。
 しかし、見終わって少し冷静になってみると、いくつもの「?」が浮かび上がる。この番組は一体何が言いたかったのだろうと。
 
 2003年にドイツで逮捕された国際テロ組織アルカイダの主要メンバーであるとされるリオネル・デュモン容疑者、彼はフランス北部の小さな町で生まれ育ち、兵役に就いていた21才の時にソマリアに出兵。そこで何かに影響され、イスラム教に改宗。その後ボスニア紛争ではイスラム系組織の一員として参戦し、テロリストとしての道を歩み始める。
 故郷ではまじめで正義感の強い青年だったと言われる彼が、なぜテロリストになったのか? そして何をしようとしていたのか? それを知ることで、私たち一般市民のテロに対する認識や戦争に関する考えを深めるのが、番組の主旨なのではないかと思っていたが、エンディングで語られた結論は非常にお粗末なものだった。

 あいまいにぼかされてはいるが、結局、この番組の主旨はテロ対策警備強化への理解を求めることだったのか? と思われても仕方ない構成だった。
 例えば、アメリカで起こっているイスラム系住民に対する差別は、テロリストへの支援という嫌疑によって逮捕され、身体にGPS発信器を取り付けられた形で仮釈放されたイスラム教指導者と飲食店経営者の映像として表現されるが、その批判に対してFBIの担当者は次のように語る。
「確かに彼らは『いい人だ』と言われているでしょう。けれどテロリストではないということをどうやって証明するんですか?」と。
 これがそのままこの番組のエンディングに繋がっているのだ。ラストでは、丸の内のオフィス街に立った安藤優子キャスターが年末年始の公共機関におけるテロ対策の警備について触れ、「誰もがテロリストとなりうる時代を我々は生きています」と語る。しかし、それで終わられては救いがないではないか。

 確かに日本に潜伏していたデュモン容疑者も善良な外国系市民を装っていたことが番組のなかで示されている。それは彼が常連客として訪れていたカフェのマスターの証言だったり、友人宅に残していったキティちゃんグッズだったりするのだが、同時に冷酷なテロリストとしての一面も暴かれている。
 しかし、善と悪の二面性などというものは、多かれ少なかれ人間なら誰でも持ち合わせているではないか。10年前にカルト教団が起こした事件や、“目立たないタイプ”の少年が起こす凶悪事件だけでなく犯罪の多くは人間のなかにある悪の部分が起こしたものだと言えるだろう。
 だから、一般社会のなかで日常生活を送る我々は、何が人間の悪にスイッチを入れるのかを知らなければならないのではないだろうか。「報道」とか「ジャーナリズム」と名の付くものの大きな目的のひとつはこの必要性に応えることだと思う。

 にもかかわらず、この番組の中ではデュモンがテロリスト、つまり犯罪者となり殺人を犯していく過程がまるで明らかにされていない。
 故郷や潜伏地では“いい人”であり、ボスニアの一部の人からは英雄扱いされているが、その反面、狂気ともいうべき残忍さを見せていたというデュモン容疑者。
 何が彼を狂気に駆り立てたのか。その真相は、デュモンが市民として兵役に就いたソマリアで体験したことことにあるような気がしてならないのだが、その点には一切触れられていない。
 特に彼の場合は、それを機に自分を育ててきたキリスト教からイスラム教に改宗するという行動を伴っている。その部分を掘り下げることをしなくてこの番組は成立しないと思うのだが、それがないのはなぜか?
 ごくシンプルに考えれば、その点を追求すれば、戦争の悪について言及せざるを得なくなり、番組はそれを意図的にぼかしたのだと考えざるを得ない。
 
 普通の市民として生きてきた者が兵士として戦場に行くということは、その前にどのような教育や訓練があったとしても、想像を絶する価値観の動転があって当然のことだ。
 それまで、自然死にしか接してきたことのない者にとって、死が、殺人が日常茶飯事の戦場での体験はそれまでの人生が根本的に覆されるような出来事の連続に違いない。それほどに戦争の価値観というのは“普通”とかけ離れていることは、私にも想像できるし、日本人も60数年前に体験したことだ。
 そして、この流れで考えれば、デュモン容疑者がたどった精神的軌跡を、現在イラクに派遣されている自衛隊員がたどらないとは言い切れない、その点についても触れられなければ不自然だ。

 こうした真相に迫ることをせず、あえてぼかそうとする報道というものをあらためて目にし、日本はすでに戦争を肯定する国になったのだと再認識した。
 デュモン容疑者が刑務所内を案内する内容のスクープ映像や、彼やビンラディンの名前が記載された国連のアルカイダ容疑者リストなどは、“大がかりな取材”を印象づけはするが、問題の本質に迫っているとは言い難いのがもどかしかった。 
 むしろ、木村太郎キャスターと容疑者の潜伏地新潟に暮らすイスラム系住民とのやりとりや、同じイスラム教国であるエジプトの変貌を実感する 通訳の様子の方が真に迫っていたが、どちらの取材も中途半端な印象しか残さない。
 「イスラム教徒イコールアルカイダではない」と偏見に対して憤慨する被取材者に対して「そのことを知らせるために取材しているのです」と木村キャスターは語るのだが、そこで話が終わっていては彼らとの溝は縮まらない。彼らの顔をきちんと出して、主張に耳を傾けるところまで報道すべきだったのではないか。
 また、エジプト社会の保守化についても、もっと掘り下げた報道がなければ、結果的にイスラム教への偏見を助長する形にしかならないのではないか。
 自分の足下である日本の市民社会から、国際テロについて考えるという、良いコンセプトの番組を見ることができた喜びが大きかっただけに、この中途半端さがとても残念だ。

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