国を「愛」する「心」の本質
「正しい戦争はない」というミクシイのコミュにて、「反愛国心」なるものについてのトピがあり、こんな意見を書き込んでみました。
------以下転載(自分のだからいいよね)--------
愛国心は否定しませんが、だからといって愛国心を否定する気持ちも否定はしません。
人がどんな愛国心を持つことも否定しませんが、それと同じ種類の愛国心を他人に強要することは否定します。
それと同時に、他国の人が自分の国を愛する気持ちも否定はしません。
私は日本が好きですが、「嫌いだ」という人の気持ちも否定はしません。
私にとって愛国心とは、いろいろな葛藤があっても、親や故郷を嫌いになれない思いに似ています。
だから「国なんか愛しちゃいかん」と言われても、やっぱり日本は好きですよ。
それでいいのではないかと思いますが。
------転載終わり-----
「愛国心問題」との付き合いは長い。
実は学生時代、朝日新聞の「声」に「愛国心よりも重い私の存在」という投書をしたところ、その翌週には同欄にて一面特集が組まれた。
(ちなみにこのタイトルは私でなく朝日の編集者がつけたもの)
今にして思えば私も随分大胆な問題提起をしたものだけれども、批判はあってもいわゆるバッシングは受けなかった。
そのなかには、元出征兵士からの自宅宛の丁寧な手紙も含まれる。
また、日本戦没学生記念会(わだつみ会)の大島孝一氏が著書『戦争のなかの青年』(岩波ジュニア新書)のなかでとり上げてくださった。
今、この日記を書くために、同書を開き、改めて20年前の自分の文を読んでみたけれど、私の基本的な考えは変わらない。
私がトピを読んでいて、憂鬱になったのは、愛国心という言葉が独り歩きしているという印象があったからである。
「愛」や「心」という言葉がついている限り、「愛国心」もまた人の内面の問題としてデリケートに扱われるべきなのだ。
それは「神」という言葉と同じに多様性、多義性があってしかるべきである。
だから定義などむしろないほうがいい。
もし何らかの意味づけが必要だとしても、「皆、自分の故郷は好きだよね(でも嫌いでもいいよ)」ぐらいのゆるい概念のほうが健全だ。
私があの文章を書いた裏にはそういう思いがある。
だから、「愛国心を育む」教育も必要ない。
そんなものをしなくても、自分の生きている場所で幸せになることができれば、誰でもその共同体を愛するようになり、それができていない社会が「愛国心」を強要するのかもしれない。
教育は必要ないとけれど、情報は必要かなとも思います。
たとえば、最近、私は、JIROさんのブログで「チャイコフスキー国際コンクール」の弦楽器製作コンクールのバイオリン部門で優勝、準優勝に輝いたのは二人とも日本人だということを知った。
そういう話を聞けば、やはり「同じ日本人としての誇り」のような気持ちは自然と沸いてくる。もちろん、「別に沸かない」という人がいてもそれはそれで構わない。
こういう情報を一部のマスコミしか報道しないので、ほとんどの人がこのことを知らないという現実があり、その一方で「愛国心」の是非について論議されることの不健全さを私は感じている。
また、日本の各地にそれぞれが育んできた暮らしの方式や技術(=伝統)があり、それらのなかに大事にされてきたスピリチュアリズム(精神性・神性)がある。
そういうものを置き去りにして、語られる「愛国心」には賛同しかねるものがある。もちろんそれを「反愛国心」と呼ぶような風潮にも。


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