「いじめ撲滅」に異議あり
今、「いじめ」について語ることは少し勇気を要する空気がある。なぜなら「いじめ」に関する前提があまりに定着しすぎていて議論の余地さえなくなっているような気がするからだ。
私がこれから書こうとしている意見は、決していじめる側の擁護でもなく、いじめられる側の自助を促すものでもない。
また、私自身が成人するまで自分に対するいじめを「いじめ」と認識することさえできなかったのを考えると、「いじめ問題」「いじめ対策」が被害者側からの視点で語られるようになったことは大きな進歩だと思う。
ただ、現在「教育再生会議」を中心に進められている対策は、拙速すぎて、単に教育問題の矛先を変え、論点をすり替えているようにしか見えない。
伊吹大臣の手紙を読んだときにも思ったが、結局政府がやろうとしている「対策」とは、教育問題に関する自分たちへの批判を、「いじめる側」に向けるための対策なのではないか、などと勘ぐってしまう。
「いじめは悪である」「いじめられっこは悪くない」そういう認識の共有は大事だが、「いじめ撲滅」の前に、もっと根本の部分での議論が必要だ。
そもそも「いじめ」とは撲滅できるものだろうか? 恐らくここの部分で考え方の違いが生じるだろうが、私は「いじめ」は、撲滅できるものではないと思う。
なぜなら、人間には誰でも感受性があり、好き嫌いの感情や自分と違うもの、相容れないものを区別する習性があるからだ。
そして、その習性がむき出しになることで、人間関係あるいは社会集団の形はゆがめられ、ときとして人間の最も残虐な面を露呈させ結果になる。
それが「いじめ」であり、「差別」であり、さまざまな場面におけるさまざまな形の「人権の侵害」である。
もしも政府が本気で「いじめ撲滅」を目指すというならば、各種差別の撤廃やあらゆる人権侵害に対しても真剣に取り組まなければならないだろう。
それらを省いて「いじめ」だけを「撲滅」しようとすることは、正義の名の下に行われる新たな「いじめ」や人権侵害の火種となりはしないかと私は危惧する。
なぜなら、「いじめの根」は人間がもつ本質のなかにあるからだ。「いじめ」問題がやっかいなのは、その根本の原因が人間の外にではなく、内側にあるものだという点である。
自分たちが真剣に取り組めば「いじめ撲滅」は成し遂げられると考える人たちは、恐らく正義感にあふれる人だろうと私は想像するが、その善意のなかにさえ、「好悪」や「違和」の感情はあるはずだ。
どうかその点から目を背けないでもらいたいと思う。
私は人間である限り、社会的集団においてトラブルが発生するのは自然だと思うし、それを頭から否定することは人間そのものを蔑ろにすることにつながると考える。
もちろん、トラブルには、それを大きくしないような対策が必要であり、そのためにその社会的集団では一定のルールや認識が共有されるべきだろう。
私たちが生きる民主主義の社会では、違う個性や価値観や文化を持つもの同士が、お互いへの「好悪」や「違和」の感情をむき出しにせず、力の強いものが弱いものを統べるのでもなく、それぞれ折り合いを付けなくてはならないことになっている。
この認識とルールが徹底されれば、「いじめ」問題はほぼ解決する。
しかし、このことは言葉で表現するほど簡単なことではなく、たかだか十数年の学校教育でできるようになるなら、人類に「教養」は必要ないはずだ。
この人類史上もっとも重要かつ難解な課題は、国際社会でも学校のクラスでも共通の問題であり、人間はみな、自分と違うもの、相容れないものと上手く付き合う方法を、ほぼ一生かけて学んでいくものだ。
その視点を大人も子どもも同時に持たなければ「いじめ」はなくならない。
必要なのは「いじめ撲滅」ではなく、あらゆる人間関係のトラブルを「いじめ」に発展させないための対策である。
それは決して「倫理」や「道徳」によってではない。自分の心を飼いならすのは国や政府ではなく、自分自身なのだから。


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